小尾 芙佐(おび ふさ、1932年3月24日 - )は、日本の翻訳家。旧姓は神谷。 東京府豊多摩郡淀橋町大字柏木(現在の西新宿)に生まれ、東京市淀橋第一尋常小学校、三輪田高等女学校で学んだ。戦時中は長野県上伊那郡高遠町に疎開し、長野県伊那高等女学校(その後、長野県伊那弥生ヶ丘高等学校に校名変更)へ転学した。大学受験に向けて、高3の夏休みには東京にある父親の仮住まいに移り、千駄ヶ谷の津田英語会(現在は津田塾大学千駄ヶ谷キャンパスとなった)が主催する夏期講習に通った。講習が終わった後は国立国会図書館で猛勉強に励み、その結果、津田塾大学英文学科に合格を果たした。大学入学後は学生寮に入った(同じ寮の先輩に、後に小説家となる大庭みな子がいた)。大学では土居光知教授の「翻訳論」の講義を受講し、そこで初めて翻訳を学んだ。大学卒業後は就職をせず、父親が日本橋で経営していた税理士事務所の手伝いに通った。それから1年が過ぎた頃、ひまわり社に就職し、「それいゆ」編集部に配属された。ひまわり社の仕事は激務で、締め切り間近になると朝帰りが続いた。会社がある銀座のビルまで毎日通ったが、激務に疲弊して身体を壊し、1958年末に退社した。1959年の半ば頃、「それいゆ」時代に知り合った早川書房の福島正実を訪れ、SFやミステリの分野で翻訳を手がけることになった。1960年代初期には、神谷芙佐名義で翻訳を発表した。

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  • 小尾 芙佐(おび ふさ、1932年3月24日 - )は、日本の翻訳家。旧姓は神谷。 東京府豊多摩郡淀橋町大字柏木(現在の西新宿)に生まれ、東京市淀橋第一尋常小学校、三輪田高等女学校で学んだ。戦時中は長野県上伊那郡高遠町に疎開し、長野県伊那高等女学校(その後、長野県伊那弥生ヶ丘高等学校に校名変更)へ転学した。大学受験に向けて、高3の夏休みには東京にある父親の仮住まいに移り、千駄ヶ谷の津田英語会(現在は津田塾大学千駄ヶ谷キャンパスとなった)が主催する夏期講習に通った。講習が終わった後は国立国会図書館で猛勉強に励み、その結果、津田塾大学英文学科に合格を果たした。大学入学後は学生寮に入った(同じ寮の先輩に、後に小説家となる大庭みな子がいた)。大学では土居光知教授の「翻訳論」の講義を受講し、そこで初めて翻訳を学んだ。大学卒業後は就職をせず、父親が日本橋で経営していた税理士事務所の手伝いに通った。それから1年が過ぎた頃、ひまわり社に就職し、「それいゆ」編集部に配属された。ひまわり社の仕事は激務で、締め切り間近になると朝帰りが続いた。会社がある銀座のビルまで毎日通ったが、激務に疲弊して身体を壊し、1958年末に退社した。1959年の半ば頃、「それいゆ」時代に知り合った早川書房の福島正実を訪れ、SFやミステリの分野で翻訳を手がけることになった。1960年代初期には、神谷芙佐名義で翻訳を発表した。 アイザック・アシモフ、ダニエル・キイス、アーシュラ・K・ル=グウィン、アン・マキャフリイ、ヴィクトリア・ホルト、ルース・レンデルなどの翻訳で知られる。また、浅倉久志が中心となって、翻訳家の交流会「エイト・ダイナーズ」が、小尾、深町眞理子、大村美根子、山田順子、佐藤高子、鎌田三平、白石朗というメンバーで行われていた。 日本SF作家クラブ会員だったが、2013年、他のベテランSF作家らとともに名誉会員となる。 夫の(慶應義塾幼稚舎から慶應義塾大学経済学部卒業)は、経済学者で慶應義塾大学名誉教授。 (ja)
  • 小尾 芙佐(おび ふさ、1932年3月24日 - )は、日本の翻訳家。旧姓は神谷。 東京府豊多摩郡淀橋町大字柏木(現在の西新宿)に生まれ、東京市淀橋第一尋常小学校、三輪田高等女学校で学んだ。戦時中は長野県上伊那郡高遠町に疎開し、長野県伊那高等女学校(その後、長野県伊那弥生ヶ丘高等学校に校名変更)へ転学した。大学受験に向けて、高3の夏休みには東京にある父親の仮住まいに移り、千駄ヶ谷の津田英語会(現在は津田塾大学千駄ヶ谷キャンパスとなった)が主催する夏期講習に通った。講習が終わった後は国立国会図書館で猛勉強に励み、その結果、津田塾大学英文学科に合格を果たした。大学入学後は学生寮に入った(同じ寮の先輩に、後に小説家となる大庭みな子がいた)。大学では土居光知教授の「翻訳論」の講義を受講し、そこで初めて翻訳を学んだ。大学卒業後は就職をせず、父親が日本橋で経営していた税理士事務所の手伝いに通った。それから1年が過ぎた頃、ひまわり社に就職し、「それいゆ」編集部に配属された。ひまわり社の仕事は激務で、締め切り間近になると朝帰りが続いた。会社がある銀座のビルまで毎日通ったが、激務に疲弊して身体を壊し、1958年末に退社した。1959年の半ば頃、「それいゆ」時代に知り合った早川書房の福島正実を訪れ、SFやミステリの分野で翻訳を手がけることになった。1960年代初期には、神谷芙佐名義で翻訳を発表した。 アイザック・アシモフ、ダニエル・キイス、アーシュラ・K・ル=グウィン、アン・マキャフリイ、ヴィクトリア・ホルト、ルース・レンデルなどの翻訳で知られる。また、浅倉久志が中心となって、翻訳家の交流会「エイト・ダイナーズ」が、小尾、深町眞理子、大村美根子、山田順子、佐藤高子、鎌田三平、白石朗というメンバーで行われていた。 日本SF作家クラブ会員だったが、2013年、他のベテランSF作家らとともに名誉会員となる。 夫の(慶應義塾幼稚舎から慶應義塾大学経済学部卒業)は、経済学者で慶應義塾大学名誉教授。 (ja)
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  • 小尾 芙佐(おび ふさ、1932年3月24日 - )は、日本の翻訳家。旧姓は神谷。 東京府豊多摩郡淀橋町大字柏木(現在の西新宿)に生まれ、東京市淀橋第一尋常小学校、三輪田高等女学校で学んだ。戦時中は長野県上伊那郡高遠町に疎開し、長野県伊那高等女学校(その後、長野県伊那弥生ヶ丘高等学校に校名変更)へ転学した。大学受験に向けて、高3の夏休みには東京にある父親の仮住まいに移り、千駄ヶ谷の津田英語会(現在は津田塾大学千駄ヶ谷キャンパスとなった)が主催する夏期講習に通った。講習が終わった後は国立国会図書館で猛勉強に励み、その結果、津田塾大学英文学科に合格を果たした。大学入学後は学生寮に入った(同じ寮の先輩に、後に小説家となる大庭みな子がいた)。大学では土居光知教授の「翻訳論」の講義を受講し、そこで初めて翻訳を学んだ。大学卒業後は就職をせず、父親が日本橋で経営していた税理士事務所の手伝いに通った。それから1年が過ぎた頃、ひまわり社に就職し、「それいゆ」編集部に配属された。ひまわり社の仕事は激務で、締め切り間近になると朝帰りが続いた。会社がある銀座のビルまで毎日通ったが、激務に疲弊して身体を壊し、1958年末に退社した。1959年の半ば頃、「それいゆ」時代に知り合った早川書房の福島正実を訪れ、SFやミステリの分野で翻訳を手がけることになった。1960年代初期には、神谷芙佐名義で翻訳を発表した。 (ja)
  • 小尾 芙佐(おび ふさ、1932年3月24日 - )は、日本の翻訳家。旧姓は神谷。 東京府豊多摩郡淀橋町大字柏木(現在の西新宿)に生まれ、東京市淀橋第一尋常小学校、三輪田高等女学校で学んだ。戦時中は長野県上伊那郡高遠町に疎開し、長野県伊那高等女学校(その後、長野県伊那弥生ヶ丘高等学校に校名変更)へ転学した。大学受験に向けて、高3の夏休みには東京にある父親の仮住まいに移り、千駄ヶ谷の津田英語会(現在は津田塾大学千駄ヶ谷キャンパスとなった)が主催する夏期講習に通った。講習が終わった後は国立国会図書館で猛勉強に励み、その結果、津田塾大学英文学科に合格を果たした。大学入学後は学生寮に入った(同じ寮の先輩に、後に小説家となる大庭みな子がいた)。大学では土居光知教授の「翻訳論」の講義を受講し、そこで初めて翻訳を学んだ。大学卒業後は就職をせず、父親が日本橋で経営していた税理士事務所の手伝いに通った。それから1年が過ぎた頃、ひまわり社に就職し、「それいゆ」編集部に配属された。ひまわり社の仕事は激務で、締め切り間近になると朝帰りが続いた。会社がある銀座のビルまで毎日通ったが、激務に疲弊して身体を壊し、1958年末に退社した。1959年の半ば頃、「それいゆ」時代に知り合った早川書房の福島正実を訪れ、SFやミステリの分野で翻訳を手がけることになった。1960年代初期には、神谷芙佐名義で翻訳を発表した。 (ja)
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  • 小尾芙佐 (ja)
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