寿三郎(じゅさぶろう、文化10年(1813年) - ?)は、江戸時代の漂流民。 肥後国玉名郡坂下の出身。天保5年(1834年)、同国出身の庄蔵の船で天草を出航し長崎へ向かうが、途中で嵐に遭って庄蔵ら3名とともにスペイン領のルソン島へ漂流する。 その後、現地で保護を受けて、天保8年(1837年)スペイン船でスペイン領マカオに移り、同じくアメリカに漂流していた音吉ら3名と合流する。同年、帰国するためにアメリカ商船のモリソン号で浦賀へ向かうが、異国船打払令によって撤退。続いて薩摩山川港では庄蔵と上陸を果たすが、結局帰国は叶わなかった。 その後はマカオで庄蔵と余生を送り、嘉永ころまでには没したという。

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  • 寿三郎(じゅさぶろう、文化10年(1813年) - ?)は、江戸時代の漂流民。 肥後国玉名郡坂下の出身。天保5年(1834年)、同国出身の庄蔵の船で天草を出航し長崎へ向かうが、途中で嵐に遭って庄蔵ら3名とともにスペイン領のルソン島へ漂流する。 その後、現地で保護を受けて、天保8年(1837年)スペイン船でスペイン領マカオに移り、同じくアメリカに漂流していた音吉ら3名と合流する。同年、帰国するためにアメリカ商船のモリソン号で浦賀へ向かうが、異国船打払令によって撤退。続いて薩摩山川港では庄蔵と上陸を果たすが、結局帰国は叶わなかった。 その後はマカオで庄蔵と余生を送り、嘉永ころまでには没したという。 (ja)
  • 寿三郎(じゅさぶろう、文化10年(1813年) - ?)は、江戸時代の漂流民。 肥後国玉名郡坂下の出身。天保5年(1834年)、同国出身の庄蔵の船で天草を出航し長崎へ向かうが、途中で嵐に遭って庄蔵ら3名とともにスペイン領のルソン島へ漂流する。 その後、現地で保護を受けて、天保8年(1837年)スペイン船でスペイン領マカオに移り、同じくアメリカに漂流していた音吉ら3名と合流する。同年、帰国するためにアメリカ商船のモリソン号で浦賀へ向かうが、異国船打払令によって撤退。続いて薩摩山川港では庄蔵と上陸を果たすが、結局帰国は叶わなかった。 その後はマカオで庄蔵と余生を送り、嘉永ころまでには没したという。 (ja)
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  • 寿三郎(じゅさぶろう、文化10年(1813年) - ?)は、江戸時代の漂流民。 肥後国玉名郡坂下の出身。天保5年(1834年)、同国出身の庄蔵の船で天草を出航し長崎へ向かうが、途中で嵐に遭って庄蔵ら3名とともにスペイン領のルソン島へ漂流する。 その後、現地で保護を受けて、天保8年(1837年)スペイン船でスペイン領マカオに移り、同じくアメリカに漂流していた音吉ら3名と合流する。同年、帰国するためにアメリカ商船のモリソン号で浦賀へ向かうが、異国船打払令によって撤退。続いて薩摩山川港では庄蔵と上陸を果たすが、結局帰国は叶わなかった。 その後はマカオで庄蔵と余生を送り、嘉永ころまでには没したという。 (ja)
  • 寿三郎(じゅさぶろう、文化10年(1813年) - ?)は、江戸時代の漂流民。 肥後国玉名郡坂下の出身。天保5年(1834年)、同国出身の庄蔵の船で天草を出航し長崎へ向かうが、途中で嵐に遭って庄蔵ら3名とともにスペイン領のルソン島へ漂流する。 その後、現地で保護を受けて、天保8年(1837年)スペイン船でスペイン領マカオに移り、同じくアメリカに漂流していた音吉ら3名と合流する。同年、帰国するためにアメリカ商船のモリソン号で浦賀へ向かうが、異国船打払令によって撤退。続いて薩摩山川港では庄蔵と上陸を果たすが、結局帰国は叶わなかった。 その後はマカオで庄蔵と余生を送り、嘉永ころまでには没したという。 (ja)
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  • 寿三郎 (ja)
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