宰 我(さい が)は、孔子の門人。姓は宰、名は予、字は子我。 魯国出身。孔門十哲の一人で弁論の達人と評された。孔門の中では最も実利主義的な人物で道徳を軽視したため、礼とともに道徳を重んじる孔子からよく叱責を受けていたことが『論語』で伝わっている(八佾第三など)。 司馬遷の『史記』仲尼弟子列伝や『孔子家語』七十二弟子解によると、彼はのちに斉国の長官になったが、田恒の反乱に加担し一族皆殺しにされたとされる。ただし、『史記』などのこの記述は、『春秋左氏伝』や『呂氏春秋』に、別人で当時叛乱に加わった同じ字(あざな)の人物で子我(監止)についての違う記述があることから、司馬遷が混同して誤ったとする説(清の張翼など)があるが、別に『韓非子』難言篇などにも「宰予不免於田常」との記述があることから、宰我が「田恒の乱」に関与して死を免れなかったことは、既定の事実として当時は広く知られていた。

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  • 宰 我(さい が)は、孔子の門人。姓は宰、名は予、字は子我。 魯国出身。孔門十哲の一人で弁論の達人と評された。孔門の中では最も実利主義的な人物で道徳を軽視したため、礼とともに道徳を重んじる孔子からよく叱責を受けていたことが『論語』で伝わっている(八佾第三など)。 司馬遷の『史記』仲尼弟子列伝や『孔子家語』七十二弟子解によると、彼はのちに斉国の長官になったが、田恒の反乱に加担し一族皆殺しにされたとされる。ただし、『史記』などのこの記述は、『春秋左氏伝』や『呂氏春秋』に、別人で当時叛乱に加わった同じ字(あざな)の人物で子我(監止)についての違う記述があることから、司馬遷が混同して誤ったとする説(清の張翼など)があるが、別に『韓非子』難言篇などにも「宰予不免於田常」との記述があることから、宰我が「田恒の乱」に関与して死を免れなかったことは、既定の事実として当時は広く知られていた。 (ja)
  • 宰 我(さい が)は、孔子の門人。姓は宰、名は予、字は子我。 魯国出身。孔門十哲の一人で弁論の達人と評された。孔門の中では最も実利主義的な人物で道徳を軽視したため、礼とともに道徳を重んじる孔子からよく叱責を受けていたことが『論語』で伝わっている(八佾第三など)。 司馬遷の『史記』仲尼弟子列伝や『孔子家語』七十二弟子解によると、彼はのちに斉国の長官になったが、田恒の反乱に加担し一族皆殺しにされたとされる。ただし、『史記』などのこの記述は、『春秋左氏伝』や『呂氏春秋』に、別人で当時叛乱に加わった同じ字(あざな)の人物で子我(監止)についての違う記述があることから、司馬遷が混同して誤ったとする説(清の張翼など)があるが、別に『韓非子』難言篇などにも「宰予不免於田常」との記述があることから、宰我が「田恒の乱」に関与して死を免れなかったことは、既定の事実として当時は広く知られていた。 (ja)
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  • 宰 我(さい が)は、孔子の門人。姓は宰、名は予、字は子我。 魯国出身。孔門十哲の一人で弁論の達人と評された。孔門の中では最も実利主義的な人物で道徳を軽視したため、礼とともに道徳を重んじる孔子からよく叱責を受けていたことが『論語』で伝わっている(八佾第三など)。 司馬遷の『史記』仲尼弟子列伝や『孔子家語』七十二弟子解によると、彼はのちに斉国の長官になったが、田恒の反乱に加担し一族皆殺しにされたとされる。ただし、『史記』などのこの記述は、『春秋左氏伝』や『呂氏春秋』に、別人で当時叛乱に加わった同じ字(あざな)の人物で子我(監止)についての違う記述があることから、司馬遷が混同して誤ったとする説(清の張翼など)があるが、別に『韓非子』難言篇などにも「宰予不免於田常」との記述があることから、宰我が「田恒の乱」に関与して死を免れなかったことは、既定の事実として当時は広く知られていた。 (ja)
  • 宰 我(さい が)は、孔子の門人。姓は宰、名は予、字は子我。 魯国出身。孔門十哲の一人で弁論の達人と評された。孔門の中では最も実利主義的な人物で道徳を軽視したため、礼とともに道徳を重んじる孔子からよく叱責を受けていたことが『論語』で伝わっている(八佾第三など)。 司馬遷の『史記』仲尼弟子列伝や『孔子家語』七十二弟子解によると、彼はのちに斉国の長官になったが、田恒の反乱に加担し一族皆殺しにされたとされる。ただし、『史記』などのこの記述は、『春秋左氏伝』や『呂氏春秋』に、別人で当時叛乱に加わった同じ字(あざな)の人物で子我(監止)についての違う記述があることから、司馬遷が混同して誤ったとする説(清の張翼など)があるが、別に『韓非子』難言篇などにも「宰予不免於田常」との記述があることから、宰我が「田恒の乱」に関与して死を免れなかったことは、既定の事実として当時は広く知られていた。 (ja)
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  • 宰我 (ja)
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