旧制奉天第一中学校(きゅうせいほうてんだいいちちゅうがっこう)は、南満州鉄道株式会社(満鉄)が奉天市(現・瀋陽市)に、1919年4月に創設した旧制中学校。当初は中華民国内の南満州鉄道附属地(満鉄が行政権の一部を保持していた)の教育機関として設置され、満州国建国後の1937年以降は満州国の教育機関の一つとなった。 通称は「奉天一中」。設立当初は「奉天中学校」と称していたが、1936年に奉天第二中学校が置かれると同時に「第一」を校名に加えた。 満州国崩壊後は中華民国に接収され、教職員・生徒は順次日本本土へ引き揚げて廃校となった。校舎をはじめ設備は民国側の学校に利用され、一時、瀋陽第39中学校と称していたが、後に中山中学に改まり、現在は東北中山中学となっている。 代々木ゼミナール漢文科講師や同ゼミ町田校校長を務めた多久弘一が教諭として赴任し、教壇に立ったこともある。

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  • 旧制奉天第一中学校(きゅうせいほうてんだいいちちゅうがっこう)は、南満州鉄道株式会社(満鉄)が奉天市(現・瀋陽市)に、1919年4月に創設した旧制中学校。当初は中華民国内の南満州鉄道附属地(満鉄が行政権の一部を保持していた)の教育機関として設置され、満州国建国後の1937年以降は満州国の教育機関の一つとなった。 通称は「奉天一中」。設立当初は「奉天中学校」と称していたが、1936年に奉天第二中学校が置かれると同時に「第一」を校名に加えた。 満州国崩壊後は中華民国に接収され、教職員・生徒は順次日本本土へ引き揚げて廃校となった。校舎をはじめ設備は民国側の学校に利用され、一時、瀋陽第39中学校と称していたが、後に中山中学に改まり、現在は東北中山中学となっている。 代々木ゼミナール漢文科講師や同ゼミ町田校校長を務めた多久弘一が教諭として赴任し、教壇に立ったこともある。 (ja)
  • 旧制奉天第一中学校(きゅうせいほうてんだいいちちゅうがっこう)は、南満州鉄道株式会社(満鉄)が奉天市(現・瀋陽市)に、1919年4月に創設した旧制中学校。当初は中華民国内の南満州鉄道附属地(満鉄が行政権の一部を保持していた)の教育機関として設置され、満州国建国後の1937年以降は満州国の教育機関の一つとなった。 通称は「奉天一中」。設立当初は「奉天中学校」と称していたが、1936年に奉天第二中学校が置かれると同時に「第一」を校名に加えた。 満州国崩壊後は中華民国に接収され、教職員・生徒は順次日本本土へ引き揚げて廃校となった。校舎をはじめ設備は民国側の学校に利用され、一時、瀋陽第39中学校と称していたが、後に中山中学に改まり、現在は東北中山中学となっている。 代々木ゼミナール漢文科講師や同ゼミ町田校校長を務めた多久弘一が教諭として赴任し、教壇に立ったこともある。 (ja)
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  • 旧制奉天第一中学校(きゅうせいほうてんだいいちちゅうがっこう)は、南満州鉄道株式会社(満鉄)が奉天市(現・瀋陽市)に、1919年4月に創設した旧制中学校。当初は中華民国内の南満州鉄道附属地(満鉄が行政権の一部を保持していた)の教育機関として設置され、満州国建国後の1937年以降は満州国の教育機関の一つとなった。 通称は「奉天一中」。設立当初は「奉天中学校」と称していたが、1936年に奉天第二中学校が置かれると同時に「第一」を校名に加えた。 満州国崩壊後は中華民国に接収され、教職員・生徒は順次日本本土へ引き揚げて廃校となった。校舎をはじめ設備は民国側の学校に利用され、一時、瀋陽第39中学校と称していたが、後に中山中学に改まり、現在は東北中山中学となっている。 代々木ゼミナール漢文科講師や同ゼミ町田校校長を務めた多久弘一が教諭として赴任し、教壇に立ったこともある。 (ja)
  • 旧制奉天第一中学校(きゅうせいほうてんだいいちちゅうがっこう)は、南満州鉄道株式会社(満鉄)が奉天市(現・瀋陽市)に、1919年4月に創設した旧制中学校。当初は中華民国内の南満州鉄道附属地(満鉄が行政権の一部を保持していた)の教育機関として設置され、満州国建国後の1937年以降は満州国の教育機関の一つとなった。 通称は「奉天一中」。設立当初は「奉天中学校」と称していたが、1936年に奉天第二中学校が置かれると同時に「第一」を校名に加えた。 満州国崩壊後は中華民国に接収され、教職員・生徒は順次日本本土へ引き揚げて廃校となった。校舎をはじめ設備は民国側の学校に利用され、一時、瀋陽第39中学校と称していたが、後に中山中学に改まり、現在は東北中山中学となっている。 代々木ゼミナール漢文科講師や同ゼミ町田校校長を務めた多久弘一が教諭として赴任し、教壇に立ったこともある。 (ja)
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  • 奉天第一中学校 (旧制) (ja)
  • 奉天第一中学校 (旧制) (ja)
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