大町大路(おおまちおおじ)は、鎌倉幕府による都市計画の中核を成す「六大路」の一つで、『吾妻鏡』にもその名が記されている。極楽寺切通し、大仏切通し等から鎌倉に入った街道が、長谷を基点として、今大路、若宮大路、小町大路を横断し、名越切通に向かう東西の基幹大路であった。今大路との四つ角にあたる六地蔵前から、やや山(北)よりに湾曲しているが、これは当時の海岸線が今よりかなり深く湾入していたためと考えられる。なお、当時の海岸際に沿って、ほぼ一直線に東行する車大路が併走していた。大町大路と車大路は、安国論寺付近で再び合流し、名越切通方向へ。

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  • 大町大路(おおまちおおじ)は、鎌倉幕府による都市計画の中核を成す「六大路」の一つで、『吾妻鏡』にもその名が記されている。極楽寺切通し、大仏切通し等から鎌倉に入った街道が、長谷を基点として、今大路、若宮大路、小町大路を横断し、名越切通に向かう東西の基幹大路であった。今大路との四つ角にあたる六地蔵前から、やや山(北)よりに湾曲しているが、これは当時の海岸線が今よりかなり深く湾入していたためと考えられる。なお、当時の海岸際に沿って、ほぼ一直線に東行する車大路が併走していた。大町大路と車大路は、安国論寺付近で再び合流し、名越切通方向へ。 (ja)
  • 大町大路(おおまちおおじ)は、鎌倉幕府による都市計画の中核を成す「六大路」の一つで、『吾妻鏡』にもその名が記されている。極楽寺切通し、大仏切通し等から鎌倉に入った街道が、長谷を基点として、今大路、若宮大路、小町大路を横断し、名越切通に向かう東西の基幹大路であった。今大路との四つ角にあたる六地蔵前から、やや山(北)よりに湾曲しているが、これは当時の海岸線が今よりかなり深く湾入していたためと考えられる。なお、当時の海岸際に沿って、ほぼ一直線に東行する車大路が併走していた。大町大路と車大路は、安国論寺付近で再び合流し、名越切通方向へ。 (ja)
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  • 大町大路(おおまちおおじ)は、鎌倉幕府による都市計画の中核を成す「六大路」の一つで、『吾妻鏡』にもその名が記されている。極楽寺切通し、大仏切通し等から鎌倉に入った街道が、長谷を基点として、今大路、若宮大路、小町大路を横断し、名越切通に向かう東西の基幹大路であった。今大路との四つ角にあたる六地蔵前から、やや山(北)よりに湾曲しているが、これは当時の海岸線が今よりかなり深く湾入していたためと考えられる。なお、当時の海岸際に沿って、ほぼ一直線に東行する車大路が併走していた。大町大路と車大路は、安国論寺付近で再び合流し、名越切通方向へ。 (ja)
  • 大町大路(おおまちおおじ)は、鎌倉幕府による都市計画の中核を成す「六大路」の一つで、『吾妻鏡』にもその名が記されている。極楽寺切通し、大仏切通し等から鎌倉に入った街道が、長谷を基点として、今大路、若宮大路、小町大路を横断し、名越切通に向かう東西の基幹大路であった。今大路との四つ角にあたる六地蔵前から、やや山(北)よりに湾曲しているが、これは当時の海岸線が今よりかなり深く湾入していたためと考えられる。なお、当時の海岸際に沿って、ほぼ一直線に東行する車大路が併走していた。大町大路と車大路は、安国論寺付近で再び合流し、名越切通方向へ。 (ja)
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  • 大町大路 (ja)
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