大友皇子即位説(おおとものみこそくいせつ)は、江戸時代から唱えられた学説で、日本史学で長く続く論争点である。 671年、天智天皇の死後に朝廷を主宰した大友皇子は、翌672年の壬申の乱で、大海人皇子(後の天武天皇)に敗死した。この間に大友皇子が即位式を行って天皇になったのか、それとも行わないうちに死去したのかが争点である。大友皇子が実際に天皇としての行為を行っていたことへの異議は少ない。 大友皇子は明治に入った明治3年(1870年)に諡号を贈られて弘文天皇と呼ばれたため、弘文天皇即位説(こうぶんてんのうそくいせつ)とも呼ばれる。