増原内奏問題(ますはらないそうもんだい)は、1973年(昭和48年)5月に内奏における昭和天皇による日本国の自衛力強化支持発言と当時難航していた防衛2法案(防衛医大設置、防衛庁設置)の野党の反対による国会での成立遅延への疑念発言を記者会見で公表したことで「天皇の政治利用」と批判された政治問題である。名称は、当時の防衛庁長官(現在の防衛大臣に相当)で、批判で辞任することになった増原惠吉に由来する。