『坐隠談叢』(ざいんだんそう)は、日本の囲碁の歴史を描いた書物。 1904年(明治37年)に、(のちに関西囲碁会(関西囲碁研究会)を創設する)(号は如意)が刊行した。6年後の1910年(明治43年)、安井算英、中川亀三郎、本因坊秀栄の死去後の情報を追記した「訂増版」と称した版が「関西囲碁会」から再刊。いずれも山田光(号は玉川)が執筆を担当したとされる。 その後、『囲碁全史 : 坐隠談叢』として、と 安永一が増補したものが平凡社から1941年に刊行された。『新編増補 坐隠談叢 囲碁全史』と題したものが渡辺英夫の改補でから1955年・1973年に刊行された。

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  • 『坐隠談叢』(ざいんだんそう)は、日本の囲碁の歴史を描いた書物。 1904年(明治37年)に、(のちに関西囲碁会(関西囲碁研究会)を創設する)(号は如意)が刊行した。6年後の1910年(明治43年)、安井算英、中川亀三郎、本因坊秀栄の死去後の情報を追記した「訂増版」と称した版が「関西囲碁会」から再刊。いずれも山田光(号は玉川)が執筆を担当したとされる。 その後、『囲碁全史 : 坐隠談叢』として、と 安永一が増補したものが平凡社から1941年に刊行された。『新編増補 坐隠談叢 囲碁全史』と題したものが渡辺英夫の改補でから1955年・1973年に刊行された。 (ja)
  • 『坐隠談叢』(ざいんだんそう)は、日本の囲碁の歴史を描いた書物。 1904年(明治37年)に、(のちに関西囲碁会(関西囲碁研究会)を創設する)(号は如意)が刊行した。6年後の1910年(明治43年)、安井算英、中川亀三郎、本因坊秀栄の死去後の情報を追記した「訂増版」と称した版が「関西囲碁会」から再刊。いずれも山田光(号は玉川)が執筆を担当したとされる。 その後、『囲碁全史 : 坐隠談叢』として、と 安永一が増補したものが平凡社から1941年に刊行された。『新編増補 坐隠談叢 囲碁全史』と題したものが渡辺英夫の改補でから1955年・1973年に刊行された。 (ja)
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  • 『坐隠談叢』(ざいんだんそう)は、日本の囲碁の歴史を描いた書物。 1904年(明治37年)に、(のちに関西囲碁会(関西囲碁研究会)を創設する)(号は如意)が刊行した。6年後の1910年(明治43年)、安井算英、中川亀三郎、本因坊秀栄の死去後の情報を追記した「訂増版」と称した版が「関西囲碁会」から再刊。いずれも山田光(号は玉川)が執筆を担当したとされる。 その後、『囲碁全史 : 坐隠談叢』として、と 安永一が増補したものが平凡社から1941年に刊行された。『新編増補 坐隠談叢 囲碁全史』と題したものが渡辺英夫の改補でから1955年・1973年に刊行された。 (ja)
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  • 坐隠談叢 (ja)
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