『十便十宜』(じゅうべんじゅうぎ)は、清の劇作家李漁(李笠翁)が、別荘伊園での生活をうたった詩『十便十二宜詩』のうちの十便十宜(2つの宜の詩は見つかっていない)のこと。『十便十二宜詩』は、草蘆を山麓にむすんで、門をとじて閑居したところ、客の訪問を受け、静は静であろうが、不便なことが多いであろうといったのに対して、便(便利なこと)と宜(よいこと)の詩をつくってこたえたというもの。これに基づいて1771年に池大雅が「十便帖」、与謝蕪村が「十宜帖」を描き、合作した画帖が「十便十宜帖」である。慣用的に「十便十宜図」とも。大雅作の「釣便」は名高い。 「紙本淡彩十宜図〈与謝蕪村筆〉」・「紙本淡彩十便図〈池大雅筆〉」として、1935年4月30日に重要文化財、1951年6月9日に国宝に指定されている。 両者に制作を依頼したのは、鳴海宿の豪農・である。学海は大雅の弟子で、大雅が尾張に逗留した際には学海宅に宿泊するなど交流があり、大雅が蕪村に呼びかけてこの共作が実現したという。志賀直哉は、大正時代に所有者だった松本枩蔵宅でこの実物を見て感動し、『座右宝』(自薦の美術図録。大正15年刊)の一つに池大雅の「十便帖」を選んでいる。川端康成が、戦後まもなく家を買うのをあきらめ、これを蒐集し現在は蔵。

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  • 『十便十宜』(じゅうべんじゅうぎ)は、清の劇作家李漁(李笠翁)が、別荘伊園での生活をうたった詩『十便十二宜詩』のうちの十便十宜(2つの宜の詩は見つかっていない)のこと。『十便十二宜詩』は、草蘆を山麓にむすんで、門をとじて閑居したところ、客の訪問を受け、静は静であろうが、不便なことが多いであろうといったのに対して、便(便利なこと)と宜(よいこと)の詩をつくってこたえたというもの。これに基づいて1771年に池大雅が「十便帖」、与謝蕪村が「十宜帖」を描き、合作した画帖が「十便十宜帖」である。慣用的に「十便十宜図」とも。大雅作の「釣便」は名高い。 「紙本淡彩十宜図〈与謝蕪村筆〉」・「紙本淡彩十便図〈池大雅筆〉」として、1935年4月30日に重要文化財、1951年6月9日に国宝に指定されている。 両者に制作を依頼したのは、鳴海宿の豪農・である。学海は大雅の弟子で、大雅が尾張に逗留した際には学海宅に宿泊するなど交流があり、大雅が蕪村に呼びかけてこの共作が実現したという。志賀直哉は、大正時代に所有者だった松本枩蔵宅でこの実物を見て感動し、『座右宝』(自薦の美術図録。大正15年刊)の一つに池大雅の「十便帖」を選んでいる。川端康成が、戦後まもなく家を買うのをあきらめ、これを蒐集し現在は蔵。 (ja)
  • 『十便十宜』(じゅうべんじゅうぎ)は、清の劇作家李漁(李笠翁)が、別荘伊園での生活をうたった詩『十便十二宜詩』のうちの十便十宜(2つの宜の詩は見つかっていない)のこと。『十便十二宜詩』は、草蘆を山麓にむすんで、門をとじて閑居したところ、客の訪問を受け、静は静であろうが、不便なことが多いであろうといったのに対して、便(便利なこと)と宜(よいこと)の詩をつくってこたえたというもの。これに基づいて1771年に池大雅が「十便帖」、与謝蕪村が「十宜帖」を描き、合作した画帖が「十便十宜帖」である。慣用的に「十便十宜図」とも。大雅作の「釣便」は名高い。 「紙本淡彩十宜図〈与謝蕪村筆〉」・「紙本淡彩十便図〈池大雅筆〉」として、1935年4月30日に重要文化財、1951年6月9日に国宝に指定されている。 両者に制作を依頼したのは、鳴海宿の豪農・である。学海は大雅の弟子で、大雅が尾張に逗留した際には学海宅に宿泊するなど交流があり、大雅が蕪村に呼びかけてこの共作が実現したという。志賀直哉は、大正時代に所有者だった松本枩蔵宅でこの実物を見て感動し、『座右宝』(自薦の美術図録。大正15年刊)の一つに池大雅の「十便帖」を選んでいる。川端康成が、戦後まもなく家を買うのをあきらめ、これを蒐集し現在は蔵。 (ja)
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  • 『十便十宜』(じゅうべんじゅうぎ)は、清の劇作家李漁(李笠翁)が、別荘伊園での生活をうたった詩『十便十二宜詩』のうちの十便十宜(2つの宜の詩は見つかっていない)のこと。『十便十二宜詩』は、草蘆を山麓にむすんで、門をとじて閑居したところ、客の訪問を受け、静は静であろうが、不便なことが多いであろうといったのに対して、便(便利なこと)と宜(よいこと)の詩をつくってこたえたというもの。これに基づいて1771年に池大雅が「十便帖」、与謝蕪村が「十宜帖」を描き、合作した画帖が「十便十宜帖」である。慣用的に「十便十宜図」とも。大雅作の「釣便」は名高い。 「紙本淡彩十宜図〈与謝蕪村筆〉」・「紙本淡彩十便図〈池大雅筆〉」として、1935年4月30日に重要文化財、1951年6月9日に国宝に指定されている。 両者に制作を依頼したのは、鳴海宿の豪農・である。学海は大雅の弟子で、大雅が尾張に逗留した際には学海宅に宿泊するなど交流があり、大雅が蕪村に呼びかけてこの共作が実現したという。志賀直哉は、大正時代に所有者だった松本枩蔵宅でこの実物を見て感動し、『座右宝』(自薦の美術図録。大正15年刊)の一つに池大雅の「十便帖」を選んでいる。川端康成が、戦後まもなく家を買うのをあきらめ、これを蒐集し現在は蔵。 (ja)
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  • 十便十宜 (ja)
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