劉 熙載(りゅう きさい、Liu Xizai、1813年 - 1881年)は、清末の学者・批評家。字は伯簡、号は融斎。 江蘇省揚州府高郵州興化県の出身。1839年に挙人となり、1844年に進士となる。翰林院庶吉士、翰林院編修を歴任し、1853年には値上書房となって帝室の子弟に講義した。1860年、アロー戦争でイギリス・フランス連合軍が北京に入った時、官吏の多くは逃げ出したが劉熙載はとどまった。その後、武昌の江漢書院の主講となり、1864年には国子監司業となり、官職は左春坊左中允、広東学政に至った。1867年より上海の龍門書院に招かれ講義を行った。1880年、病で郷里に戻り、翌年に古桐書屋で死去した。 劉熙載は経学はもとより、賦・詞曲・書法・声韻・算術など通じない学問はないといわれた。著書の『芸概』は近代で最も重要な文学評論書の一つであるといわれる。

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  • 劉 熙載(りゅう きさい、Liu Xizai、1813年 - 1881年)は、清末の学者・批評家。字は伯簡、号は融斎。 江蘇省揚州府高郵州興化県の出身。1839年に挙人となり、1844年に進士となる。翰林院庶吉士、翰林院編修を歴任し、1853年には値上書房となって帝室の子弟に講義した。1860年、アロー戦争でイギリス・フランス連合軍が北京に入った時、官吏の多くは逃げ出したが劉熙載はとどまった。その後、武昌の江漢書院の主講となり、1864年には国子監司業となり、官職は左春坊左中允、広東学政に至った。1867年より上海の龍門書院に招かれ講義を行った。1880年、病で郷里に戻り、翌年に古桐書屋で死去した。 劉熙載は経学はもとより、賦・詞曲・書法・声韻・算術など通じない学問はないといわれた。著書の『芸概』は近代で最も重要な文学評論書の一つであるといわれる。 (ja)
  • 劉 熙載(りゅう きさい、Liu Xizai、1813年 - 1881年)は、清末の学者・批評家。字は伯簡、号は融斎。 江蘇省揚州府高郵州興化県の出身。1839年に挙人となり、1844年に進士となる。翰林院庶吉士、翰林院編修を歴任し、1853年には値上書房となって帝室の子弟に講義した。1860年、アロー戦争でイギリス・フランス連合軍が北京に入った時、官吏の多くは逃げ出したが劉熙載はとどまった。その後、武昌の江漢書院の主講となり、1864年には国子監司業となり、官職は左春坊左中允、広東学政に至った。1867年より上海の龍門書院に招かれ講義を行った。1880年、病で郷里に戻り、翌年に古桐書屋で死去した。 劉熙載は経学はもとより、賦・詞曲・書法・声韻・算術など通じない学問はないといわれた。著書の『芸概』は近代で最も重要な文学評論書の一つであるといわれる。 (ja)
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  • 劉 熙載(りゅう きさい、Liu Xizai、1813年 - 1881年)は、清末の学者・批評家。字は伯簡、号は融斎。 江蘇省揚州府高郵州興化県の出身。1839年に挙人となり、1844年に進士となる。翰林院庶吉士、翰林院編修を歴任し、1853年には値上書房となって帝室の子弟に講義した。1860年、アロー戦争でイギリス・フランス連合軍が北京に入った時、官吏の多くは逃げ出したが劉熙載はとどまった。その後、武昌の江漢書院の主講となり、1864年には国子監司業となり、官職は左春坊左中允、広東学政に至った。1867年より上海の龍門書院に招かれ講義を行った。1880年、病で郷里に戻り、翌年に古桐書屋で死去した。 劉熙載は経学はもとより、賦・詞曲・書法・声韻・算術など通じない学問はないといわれた。著書の『芸概』は近代で最も重要な文学評論書の一つであるといわれる。 (ja)
  • 劉 熙載(りゅう きさい、Liu Xizai、1813年 - 1881年)は、清末の学者・批評家。字は伯簡、号は融斎。 江蘇省揚州府高郵州興化県の出身。1839年に挙人となり、1844年に進士となる。翰林院庶吉士、翰林院編修を歴任し、1853年には値上書房となって帝室の子弟に講義した。1860年、アロー戦争でイギリス・フランス連合軍が北京に入った時、官吏の多くは逃げ出したが劉熙載はとどまった。その後、武昌の江漢書院の主講となり、1864年には国子監司業となり、官職は左春坊左中允、広東学政に至った。1867年より上海の龍門書院に招かれ講義を行った。1880年、病で郷里に戻り、翌年に古桐書屋で死去した。 劉熙載は経学はもとより、賦・詞曲・書法・声韻・算術など通じない学問はないといわれた。著書の『芸概』は近代で最も重要な文学評論書の一つであるといわれる。 (ja)
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  • 劉熙載 (ja)
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