佐久間勝興(さくまかつおき、寛永13年(1636年) - 寛文4年5月15日(1664年6月9日))は、江戸時代の旗本。佐久間氏の一族。信濃長沼藩主佐久間勝友の次男。史料によって「勝与」となっているものがあるのは、おそらく「興」の字を「與」(与の旧字体)と読み違えたものと思われる。通称は長助。 寛永19年(1642年)閏9月1日、兄勝豊が家督を相続した際に3000石の分知を受け小普請となる。同年閏10月1日、将軍徳川家光に拝謁。 所領は本家長沼藩と同じく信濃国水内郡と近江国高島郡に分散し、長沼城の北に隣接する水内郡赤沼村(長野市赤沼)に陣屋を置き領政を行なったための初代領主と称される。江戸屋敷の位置は不明である。分家するとき長沼藩から鹿島佐五右衛門・中村八太夫の両家老をはじめとする家臣団が付属され、幼い勝興を補佐して「正路の仕置」(道理にかなった政治)を行ったので領民の信頼を得たという。正保3年(1646年)には(5000石)佐久間勝盛の死去に伴い、長沼藩・長沼知行所・赤沼知行所・幕府直轄領の四者間で所領の組みかえが実施された。 男子がなく、叔父勝種の子・盛遠を養子とした。寛文4年(1664年)24歳で死去。盛遠が跡を継いだ。戒名は廣大院。墓所は三田済海寺。子孫が奉納した位牌が二本榎広岳院に現存する。

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  • 佐久間勝興(さくまかつおき、寛永13年(1636年) - 寛文4年5月15日(1664年6月9日))は、江戸時代の旗本。佐久間氏の一族。信濃長沼藩主佐久間勝友の次男。史料によって「勝与」となっているものがあるのは、おそらく「興」の字を「與」(与の旧字体)と読み違えたものと思われる。通称は長助。 寛永19年(1642年)閏9月1日、兄勝豊が家督を相続した際に3000石の分知を受け小普請となる。同年閏10月1日、将軍徳川家光に拝謁。 所領は本家長沼藩と同じく信濃国水内郡と近江国高島郡に分散し、長沼城の北に隣接する水内郡赤沼村(長野市赤沼)に陣屋を置き領政を行なったための初代領主と称される。江戸屋敷の位置は不明である。分家するとき長沼藩から鹿島佐五右衛門・中村八太夫の両家老をはじめとする家臣団が付属され、幼い勝興を補佐して「正路の仕置」(道理にかなった政治)を行ったので領民の信頼を得たという。正保3年(1646年)には(5000石)佐久間勝盛の死去に伴い、長沼藩・長沼知行所・赤沼知行所・幕府直轄領の四者間で所領の組みかえが実施された。 男子がなく、叔父勝種の子・盛遠を養子とした。寛文4年(1664年)24歳で死去。盛遠が跡を継いだ。戒名は廣大院。墓所は三田済海寺。子孫が奉納した位牌が二本榎広岳院に現存する。 (ja)
  • 佐久間勝興(さくまかつおき、寛永13年(1636年) - 寛文4年5月15日(1664年6月9日))は、江戸時代の旗本。佐久間氏の一族。信濃長沼藩主佐久間勝友の次男。史料によって「勝与」となっているものがあるのは、おそらく「興」の字を「與」(与の旧字体)と読み違えたものと思われる。通称は長助。 寛永19年(1642年)閏9月1日、兄勝豊が家督を相続した際に3000石の分知を受け小普請となる。同年閏10月1日、将軍徳川家光に拝謁。 所領は本家長沼藩と同じく信濃国水内郡と近江国高島郡に分散し、長沼城の北に隣接する水内郡赤沼村(長野市赤沼)に陣屋を置き領政を行なったための初代領主と称される。江戸屋敷の位置は不明である。分家するとき長沼藩から鹿島佐五右衛門・中村八太夫の両家老をはじめとする家臣団が付属され、幼い勝興を補佐して「正路の仕置」(道理にかなった政治)を行ったので領民の信頼を得たという。正保3年(1646年)には(5000石)佐久間勝盛の死去に伴い、長沼藩・長沼知行所・赤沼知行所・幕府直轄領の四者間で所領の組みかえが実施された。 男子がなく、叔父勝種の子・盛遠を養子とした。寛文4年(1664年)24歳で死去。盛遠が跡を継いだ。戒名は廣大院。墓所は三田済海寺。子孫が奉納した位牌が二本榎広岳院に現存する。 (ja)
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  • 佐久間勝興(さくまかつおき、寛永13年(1636年) - 寛文4年5月15日(1664年6月9日))は、江戸時代の旗本。佐久間氏の一族。信濃長沼藩主佐久間勝友の次男。史料によって「勝与」となっているものがあるのは、おそらく「興」の字を「與」(与の旧字体)と読み違えたものと思われる。通称は長助。 寛永19年(1642年)閏9月1日、兄勝豊が家督を相続した際に3000石の分知を受け小普請となる。同年閏10月1日、将軍徳川家光に拝謁。 所領は本家長沼藩と同じく信濃国水内郡と近江国高島郡に分散し、長沼城の北に隣接する水内郡赤沼村(長野市赤沼)に陣屋を置き領政を行なったための初代領主と称される。江戸屋敷の位置は不明である。分家するとき長沼藩から鹿島佐五右衛門・中村八太夫の両家老をはじめとする家臣団が付属され、幼い勝興を補佐して「正路の仕置」(道理にかなった政治)を行ったので領民の信頼を得たという。正保3年(1646年)には(5000石)佐久間勝盛の死去に伴い、長沼藩・長沼知行所・赤沼知行所・幕府直轄領の四者間で所領の組みかえが実施された。 男子がなく、叔父勝種の子・盛遠を養子とした。寛文4年(1664年)24歳で死去。盛遠が跡を継いだ。戒名は廣大院。墓所は三田済海寺。子孫が奉納した位牌が二本榎広岳院に現存する。 (ja)
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  • 佐久間勝興 (ja)
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