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- 伯州家(はくしゅうけ)は、薩摩国の守護大名島津氏の分家。後に義岡氏を号する。 島津宗家8代当主島津久豊の五男のよりはじまる。「伯州家」の名前は豊久が伯耆守を称したことに由来する。その跡を継いだ2代のと、その子のは、守護職返り咲きを画策する14代島津勝久に同調し、15代守護となった島津貴久に叛いた。その勝久が没落すると、忠堯・忠常は日向国の島津氏分家である北郷氏を頼る。忠常の子のは、そのまま北郷氏の家臣となり志和地(現・宮崎県都城市上水流町)を領すると、以降は「志和地氏」を称する。一方、忠堯・忠常が逃散したため、伯州家の家督は貴久の命により、豊久の次男のが継ぐこととなった。 忠衡の系統は子の、孫のまで続いたものの、その忠俊が元亀2年(1571年)に下大隅での海戦にて、嗣子の無いまま21歳で戦死する。これを憂いた島津義久は、喜入氏5代季久の次男の久延に伯州家を相続させた。天正8年(1580年)より久延は「義岡氏」を称し、以降の代もそれに続く。 江戸時代、義岡氏は寄合衆の家格となり、また島津家の直別支流であることから、士分以下や他家の奉公人は称することが許されなかった。義岡氏となって以降の偏諱は、嫡流にのみ「久」の字が許され、庶流以下は「実」の字とされた。 (ja)
- 伯州家(はくしゅうけ)は、薩摩国の守護大名島津氏の分家。後に義岡氏を号する。 島津宗家8代当主島津久豊の五男のよりはじまる。「伯州家」の名前は豊久が伯耆守を称したことに由来する。その跡を継いだ2代のと、その子のは、守護職返り咲きを画策する14代島津勝久に同調し、15代守護となった島津貴久に叛いた。その勝久が没落すると、忠堯・忠常は日向国の島津氏分家である北郷氏を頼る。忠常の子のは、そのまま北郷氏の家臣となり志和地(現・宮崎県都城市上水流町)を領すると、以降は「志和地氏」を称する。一方、忠堯・忠常が逃散したため、伯州家の家督は貴久の命により、豊久の次男のが継ぐこととなった。 忠衡の系統は子の、孫のまで続いたものの、その忠俊が元亀2年(1571年)に下大隅での海戦にて、嗣子の無いまま21歳で戦死する。これを憂いた島津義久は、喜入氏5代季久の次男の久延に伯州家を相続させた。天正8年(1580年)より久延は「義岡氏」を称し、以降の代もそれに続く。 江戸時代、義岡氏は寄合衆の家格となり、また島津家の直別支流であることから、士分以下や他家の奉公人は称することが許されなかった。義岡氏となって以降の偏諱は、嫡流にのみ「久」の字が許され、庶流以下は「実」の字とされた。 (ja)
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- 伯州家(はくしゅうけ)は、薩摩国の守護大名島津氏の分家。後に義岡氏を号する。 島津宗家8代当主島津久豊の五男のよりはじまる。「伯州家」の名前は豊久が伯耆守を称したことに由来する。その跡を継いだ2代のと、その子のは、守護職返り咲きを画策する14代島津勝久に同調し、15代守護となった島津貴久に叛いた。その勝久が没落すると、忠堯・忠常は日向国の島津氏分家である北郷氏を頼る。忠常の子のは、そのまま北郷氏の家臣となり志和地(現・宮崎県都城市上水流町)を領すると、以降は「志和地氏」を称する。一方、忠堯・忠常が逃散したため、伯州家の家督は貴久の命により、豊久の次男のが継ぐこととなった。 忠衡の系統は子の、孫のまで続いたものの、その忠俊が元亀2年(1571年)に下大隅での海戦にて、嗣子の無いまま21歳で戦死する。これを憂いた島津義久は、喜入氏5代季久の次男の久延に伯州家を相続させた。天正8年(1580年)より久延は「義岡氏」を称し、以降の代もそれに続く。 江戸時代、義岡氏は寄合衆の家格となり、また島津家の直別支流であることから、士分以下や他家の奉公人は称することが許されなかった。義岡氏となって以降の偏諱は、嫡流にのみ「久」の字が許され、庶流以下は「実」の字とされた。 (ja)
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