伊東 祐豊(いとう すけとよ、慶長17年(1612年)-寛文8年8月22日(1668年))は、江戸時代初期の旗本寄合席。諱は祐豊。幼名は熊太郎。官位は従五位下主膳正。父は伊東祐慶。母は森本氏。正室は内藤政長の娘。継室は朝倉宣正の娘。継々室は三宅康盛の娘。側室は原氏。子は祐賢ほか4男9女。禄高は蔵米2000俵および日向国のうち3000石。日向国飫肥藩主家伊東家分家の祐豊系旗本伊東家初代。 徳川家光の側近の1人で、小姓などを勤める。また、最初の正室は保科正之の義妹にあたる。