亀田藩士秋田退散事件(かめだはんし あきた たいさんじけん)は、1761年(宝暦11年)4月に出羽国亀田藩から100人以上の藩士が脱藩して、隣接する久保田藩(秋田藩)へ赤平白山越えで逃れた事件である。脱藩者の中には藩主一門の岩城八百之助(やおのすけ)、同じく岩城帯刀(たてわき)、家老の大内図書(ずしょ)という重臣3名が含まれていた。藩内の対立で藩士が他藩に訴えるという事態は、明るみに出れば御家断絶になり兼ねない大事件であった。 退散の理由は、藩財政の困窮による俸禄の削減のため、藩士の生活が困難になったことに起因する。秋田藩と亀田藩の調定により、中心となった3重臣を除く全ての脱藩者は帰国したが、1765年(明和2年)に遅れて帰国した3重臣の処遇が秋田藩との約束に反して悪かったため、1770年(明和7年)3月から1784年(天明4年)12月まで秋田藩と亀田藩は絶縁状態になった。 この騒動に関して残されている記録は、すべて秋田藩のものであり、他方の当事者である亀田藩ならびに関与した仙台藩からは発見されていない。したがって、この事件は秋田藩の立場から考察を進めざるを得ない。

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  • 亀田藩士秋田退散事件(かめだはんし あきた たいさんじけん)は、1761年(宝暦11年)4月に出羽国亀田藩から100人以上の藩士が脱藩して、隣接する久保田藩(秋田藩)へ赤平白山越えで逃れた事件である。脱藩者の中には藩主一門の岩城八百之助(やおのすけ)、同じく岩城帯刀(たてわき)、家老の大内図書(ずしょ)という重臣3名が含まれていた。藩内の対立で藩士が他藩に訴えるという事態は、明るみに出れば御家断絶になり兼ねない大事件であった。 退散の理由は、藩財政の困窮による俸禄の削減のため、藩士の生活が困難になったことに起因する。秋田藩と亀田藩の調定により、中心となった3重臣を除く全ての脱藩者は帰国したが、1765年(明和2年)に遅れて帰国した3重臣の処遇が秋田藩との約束に反して悪かったため、1770年(明和7年)3月から1784年(天明4年)12月まで秋田藩と亀田藩は絶縁状態になった。 この騒動に関して残されている記録は、すべて秋田藩のものであり、他方の当事者である亀田藩ならびに関与した仙台藩からは発見されていない。したがって、この事件は秋田藩の立場から考察を進めざるを得ない。 (ja)
  • 亀田藩士秋田退散事件(かめだはんし あきた たいさんじけん)は、1761年(宝暦11年)4月に出羽国亀田藩から100人以上の藩士が脱藩して、隣接する久保田藩(秋田藩)へ赤平白山越えで逃れた事件である。脱藩者の中には藩主一門の岩城八百之助(やおのすけ)、同じく岩城帯刀(たてわき)、家老の大内図書(ずしょ)という重臣3名が含まれていた。藩内の対立で藩士が他藩に訴えるという事態は、明るみに出れば御家断絶になり兼ねない大事件であった。 退散の理由は、藩財政の困窮による俸禄の削減のため、藩士の生活が困難になったことに起因する。秋田藩と亀田藩の調定により、中心となった3重臣を除く全ての脱藩者は帰国したが、1765年(明和2年)に遅れて帰国した3重臣の処遇が秋田藩との約束に反して悪かったため、1770年(明和7年)3月から1784年(天明4年)12月まで秋田藩と亀田藩は絶縁状態になった。 この騒動に関して残されている記録は、すべて秋田藩のものであり、他方の当事者である亀田藩ならびに関与した仙台藩からは発見されていない。したがって、この事件は秋田藩の立場から考察を進めざるを得ない。 (ja)
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  • 亀田藩士秋田退散事件(かめだはんし あきた たいさんじけん)は、1761年(宝暦11年)4月に出羽国亀田藩から100人以上の藩士が脱藩して、隣接する久保田藩(秋田藩)へ赤平白山越えで逃れた事件である。脱藩者の中には藩主一門の岩城八百之助(やおのすけ)、同じく岩城帯刀(たてわき)、家老の大内図書(ずしょ)という重臣3名が含まれていた。藩内の対立で藩士が他藩に訴えるという事態は、明るみに出れば御家断絶になり兼ねない大事件であった。 退散の理由は、藩財政の困窮による俸禄の削減のため、藩士の生活が困難になったことに起因する。秋田藩と亀田藩の調定により、中心となった3重臣を除く全ての脱藩者は帰国したが、1765年(明和2年)に遅れて帰国した3重臣の処遇が秋田藩との約束に反して悪かったため、1770年(明和7年)3月から1784年(天明4年)12月まで秋田藩と亀田藩は絶縁状態になった。 この騒動に関して残されている記録は、すべて秋田藩のものであり、他方の当事者である亀田藩ならびに関与した仙台藩からは発見されていない。したがって、この事件は秋田藩の立場から考察を進めざるを得ない。 (ja)
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  • 亀田藩士秋田退散事件 (ja)
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