中野又兵衛忠利(幼名は阿槌曽知という。慶長3年(1598年)12月30日) 織田家にて旗本武将、弓衆頭。尾張国の熱田の田島で死去した織田方の武将である。 法名は学雲宗参居士。妻は那古野城主の今川氏豊息女。主な功績は、小豆坂の合戦にて七本槍にて諸功名は信長公記にて。最高知行は二千貫。中野一安、中野重吉(徳川家家臣)らは中野又兵衛と称しているが中野又兵衛忠利とは別人である。