中山 信成(なかやま のぶなり、明暦元年(1655年) - 元禄16年10月17日(1703年11月25日))は、常陸松岡藩の第5代当主。常陸水戸藩附家老・中山家5代。 第3代当主・中山信治の三男。母は向井忠勝の娘。子に信順(長男)、娘(中山信順養女、中山信昌室)。官位は従五位下、備前守。通称は内記、監物。 天和2年(1682年)12月16日に死去した兄の第4代当主中山信行の跡を継ぎ、天和3年(1683年)5月に5代目の水戸藩の附家老となり、徳川光圀に仕える。同年12月15日、従五位下・備前守に叙任。元禄元年(1688年)に光圀が隠居すると後継の徳川綱条を補佐した。元禄10年(1697年)には綱条の世子吉孚と将軍綱吉の養女八重姫の婚儀に尽力する。元禄13年(1700年)、与力だった17騎を家臣とすることが認められた。元禄16年(1703年)に49歳で死去したが、長男・信順は幼少だったため、弟の信敏を養子に迎えて跡を継がせた。墓所は埼玉県飯能市の智観寺。

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  • 中山 信成(なかやま のぶなり、明暦元年(1655年) - 元禄16年10月17日(1703年11月25日))は、常陸松岡藩の第5代当主。常陸水戸藩附家老・中山家5代。 第3代当主・中山信治の三男。母は向井忠勝の娘。子に信順(長男)、娘(中山信順養女、中山信昌室)。官位は従五位下、備前守。通称は内記、監物。 天和2年(1682年)12月16日に死去した兄の第4代当主中山信行の跡を継ぎ、天和3年(1683年)5月に5代目の水戸藩の附家老となり、徳川光圀に仕える。同年12月15日、従五位下・備前守に叙任。元禄元年(1688年)に光圀が隠居すると後継の徳川綱条を補佐した。元禄10年(1697年)には綱条の世子吉孚と将軍綱吉の養女八重姫の婚儀に尽力する。元禄13年(1700年)、与力だった17騎を家臣とすることが認められた。元禄16年(1703年)に49歳で死去したが、長男・信順は幼少だったため、弟の信敏を養子に迎えて跡を継がせた。墓所は埼玉県飯能市の智観寺。 (ja)
  • 中山 信成(なかやま のぶなり、明暦元年(1655年) - 元禄16年10月17日(1703年11月25日))は、常陸松岡藩の第5代当主。常陸水戸藩附家老・中山家5代。 第3代当主・中山信治の三男。母は向井忠勝の娘。子に信順(長男)、娘(中山信順養女、中山信昌室)。官位は従五位下、備前守。通称は内記、監物。 天和2年(1682年)12月16日に死去した兄の第4代当主中山信行の跡を継ぎ、天和3年(1683年)5月に5代目の水戸藩の附家老となり、徳川光圀に仕える。同年12月15日、従五位下・備前守に叙任。元禄元年(1688年)に光圀が隠居すると後継の徳川綱条を補佐した。元禄10年(1697年)には綱条の世子吉孚と将軍綱吉の養女八重姫の婚儀に尽力する。元禄13年(1700年)、与力だった17騎を家臣とすることが認められた。元禄16年(1703年)に49歳で死去したが、長男・信順は幼少だったため、弟の信敏を養子に迎えて跡を継がせた。墓所は埼玉県飯能市の智観寺。 (ja)
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  • 中山 信成(なかやま のぶなり、明暦元年(1655年) - 元禄16年10月17日(1703年11月25日))は、常陸松岡藩の第5代当主。常陸水戸藩附家老・中山家5代。 第3代当主・中山信治の三男。母は向井忠勝の娘。子に信順(長男)、娘(中山信順養女、中山信昌室)。官位は従五位下、備前守。通称は内記、監物。 天和2年(1682年)12月16日に死去した兄の第4代当主中山信行の跡を継ぎ、天和3年(1683年)5月に5代目の水戸藩の附家老となり、徳川光圀に仕える。同年12月15日、従五位下・備前守に叙任。元禄元年(1688年)に光圀が隠居すると後継の徳川綱条を補佐した。元禄10年(1697年)には綱条の世子吉孚と将軍綱吉の養女八重姫の婚儀に尽力する。元禄13年(1700年)、与力だった17騎を家臣とすることが認められた。元禄16年(1703年)に49歳で死去したが、長男・信順は幼少だったため、弟の信敏を養子に迎えて跡を継がせた。墓所は埼玉県飯能市の智観寺。 (ja)
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  • 中山信成 (ja)
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