「世紀末ウィーン」(せいきまつウィーン)とは、19世紀末、史上まれにみる文化の爛熟を示したオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン、およびそこで展開された多様な文化事象の総称である。広義には、20世紀世界に大きな影響を与えた政治的・経済的諸事象や学芸における諸潮流を含んで称する。文化事象に限定した表現としては「世紀末のウィーン文化」「ウィーンの世紀末文化」などがある。 なお、この時代について文学者ヘルマン・ブロッホは、随筆『ホフマンスタールとその時代』(1947年 - 1948年)のなかで、ハプスブルク帝国の末期に当たる1848年から1918年までの時期、ことにその間のウィーンを「陽気の黙示録(ドイツ語: fröhlichen Apokalypse)」と形容している。「世紀末ウィーン」という場合、このように広くオーストリア=ハンガリー二重帝国が終焉を迎える1918年あたりまでを含むことも多いが、その場合、「世紀転換期のウィーン」「ウィーン近代」の名で言い換えられることも少なくない。そして、「ウィーン近代」「近代ウィーン」「近代のウィーン」などの時代名称を用いた場合、その終わりは、ファシズム体制での1934年のウィーン市の自治権喪失や1938年のアンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)とされることが多い。

Property Value
dbo:abstract
  • 「世紀末ウィーン」(せいきまつウィーン)とは、19世紀末、史上まれにみる文化の爛熟を示したオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン、およびそこで展開された多様な文化事象の総称である。広義には、20世紀世界に大きな影響を与えた政治的・経済的諸事象や学芸における諸潮流を含んで称する。文化事象に限定した表現としては「世紀末のウィーン文化」「ウィーンの世紀末文化」などがある。 なお、この時代について文学者ヘルマン・ブロッホは、随筆『ホフマンスタールとその時代』(1947年 - 1948年)のなかで、ハプスブルク帝国の末期に当たる1848年から1918年までの時期、ことにその間のウィーンを「陽気の黙示録(ドイツ語: fröhlichen Apokalypse)」と形容している。「世紀末ウィーン」という場合、このように広くオーストリア=ハンガリー二重帝国が終焉を迎える1918年あたりまでを含むことも多いが、その場合、「世紀転換期のウィーン」「ウィーン近代」の名で言い換えられることも少なくない。そして、「ウィーン近代」「近代ウィーン」「近代のウィーン」などの時代名称を用いた場合、その終わりは、ファシズム体制での1934年のウィーン市の自治権喪失や1938年のアンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)とされることが多い。 (ja)
  • 「世紀末ウィーン」(せいきまつウィーン)とは、19世紀末、史上まれにみる文化の爛熟を示したオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン、およびそこで展開された多様な文化事象の総称である。広義には、20世紀世界に大きな影響を与えた政治的・経済的諸事象や学芸における諸潮流を含んで称する。文化事象に限定した表現としては「世紀末のウィーン文化」「ウィーンの世紀末文化」などがある。 なお、この時代について文学者ヘルマン・ブロッホは、随筆『ホフマンスタールとその時代』(1947年 - 1948年)のなかで、ハプスブルク帝国の末期に当たる1848年から1918年までの時期、ことにその間のウィーンを「陽気の黙示録(ドイツ語: fröhlichen Apokalypse)」と形容している。「世紀末ウィーン」という場合、このように広くオーストリア=ハンガリー二重帝国が終焉を迎える1918年あたりまでを含むことも多いが、その場合、「世紀転換期のウィーン」「ウィーン近代」の名で言い換えられることも少なくない。そして、「ウィーン近代」「近代ウィーン」「近代のウィーン」などの時代名称を用いた場合、その終わりは、ファシズム体制での1934年のウィーン市の自治権喪失や1938年のアンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)とされることが多い。 (ja)
dbo:thumbnail
dbo:wikiPageExternalLink
dbo:wikiPageID
  • 1068762 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 90179 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 90222126 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:align
  • right (ja)
  • right (ja)
prop-ja:caption
  • 1858 (xsd:integer)
  • 1888 (xsd:integer)
  • 「シシィ」皇妃エリーザベト(ハンガリー王妃戴冠時、1867年) (ja)
  • 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1872年撮影) (ja)
prop-ja:captionAlign
  • left (ja)
  • left (ja)
prop-ja:direction
  • vertical (ja)
  • vertical (ja)
prop-ja:image
  • Erzsebet kiralyne photo 1867.jpg (ja)
  • Doctor Kozmata Portrait of Franz Joseph I 1872.jpg (ja)
  • Umgebung von Wien .jpg (ja)
  • Wien1858.jpg (ja)
  • Erzsebet kiralyne photo 1867.jpg (ja)
  • Doctor Kozmata Portrait of Franz Joseph I 1872.jpg (ja)
  • Umgebung von Wien .jpg (ja)
  • Wien1858.jpg (ja)
prop-ja:totalWidth
  • 300 (xsd:integer)
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
dct:subject
rdfs:comment
  • 「世紀末ウィーン」(せいきまつウィーン)とは、19世紀末、史上まれにみる文化の爛熟を示したオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン、およびそこで展開された多様な文化事象の総称である。広義には、20世紀世界に大きな影響を与えた政治的・経済的諸事象や学芸における諸潮流を含んで称する。文化事象に限定した表現としては「世紀末のウィーン文化」「ウィーンの世紀末文化」などがある。 なお、この時代について文学者ヘルマン・ブロッホは、随筆『ホフマンスタールとその時代』(1947年 - 1948年)のなかで、ハプスブルク帝国の末期に当たる1848年から1918年までの時期、ことにその間のウィーンを「陽気の黙示録(ドイツ語: fröhlichen Apokalypse)」と形容している。「世紀末ウィーン」という場合、このように広くオーストリア=ハンガリー二重帝国が終焉を迎える1918年あたりまでを含むことも多いが、その場合、「世紀転換期のウィーン」「ウィーン近代」の名で言い換えられることも少なくない。そして、「ウィーン近代」「近代ウィーン」「近代のウィーン」などの時代名称を用いた場合、その終わりは、ファシズム体制での1934年のウィーン市の自治権喪失や1938年のアンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)とされることが多い。 (ja)
  • 「世紀末ウィーン」(せいきまつウィーン)とは、19世紀末、史上まれにみる文化の爛熟を示したオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン、およびそこで展開された多様な文化事象の総称である。広義には、20世紀世界に大きな影響を与えた政治的・経済的諸事象や学芸における諸潮流を含んで称する。文化事象に限定した表現としては「世紀末のウィーン文化」「ウィーンの世紀末文化」などがある。 なお、この時代について文学者ヘルマン・ブロッホは、随筆『ホフマンスタールとその時代』(1947年 - 1948年)のなかで、ハプスブルク帝国の末期に当たる1848年から1918年までの時期、ことにその間のウィーンを「陽気の黙示録(ドイツ語: fröhlichen Apokalypse)」と形容している。「世紀末ウィーン」という場合、このように広くオーストリア=ハンガリー二重帝国が終焉を迎える1918年あたりまでを含むことも多いが、その場合、「世紀転換期のウィーン」「ウィーン近代」の名で言い換えられることも少なくない。そして、「ウィーン近代」「近代ウィーン」「近代のウィーン」などの時代名称を用いた場合、その終わりは、ファシズム体制での1934年のウィーン市の自治権喪失や1938年のアンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)とされることが多い。 (ja)
rdfs:label
  • 世紀末ウィーン (ja)
  • 世紀末ウィーン (ja)
owl:sameAs
prov:wasDerivedFrom
foaf:depiction
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageRedirects of
is dbo:wikiPageWikiLink of
is prop-ja:caption of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of