万里小路 宣房(までのこうじ のぶふさ)は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけての公卿。従三位・万里小路資通の子。官位は従一位・大納言。北畠親房・吉田定房と共に、後醍醐天皇の側近「後の三房」の一人に数えられる。主な業績は、後醍醐帝が鎌倉幕府討幕の疑いをかけられた正中の変(元亨4年(1324年))において、鎌倉に後醍醐側の特使として派遣されて釈明を行い、主君の無罪判決を得たことである。建武政権では雑訴決断所頭人を務めた。しかし南北朝の内乱では後醍醐天皇が開いた南朝には合流せず、京都に残留したと見られている。日記史料に『万一記』がある。

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  • 万里小路 宣房(までのこうじ のぶふさ)は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけての公卿。従三位・万里小路資通の子。官位は従一位・大納言。北畠親房・吉田定房と共に、後醍醐天皇の側近「後の三房」の一人に数えられる。主な業績は、後醍醐帝が鎌倉幕府討幕の疑いをかけられた正中の変(元亨4年(1324年))において、鎌倉に後醍醐側の特使として派遣されて釈明を行い、主君の無罪判決を得たことである。建武政権では雑訴決断所頭人を務めた。しかし南北朝の内乱では後醍醐天皇が開いた南朝には合流せず、京都に残留したと見られている。日記史料に『万一記』がある。 (ja)
  • 万里小路 宣房(までのこうじ のぶふさ)は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけての公卿。従三位・万里小路資通の子。官位は従一位・大納言。北畠親房・吉田定房と共に、後醍醐天皇の側近「後の三房」の一人に数えられる。主な業績は、後醍醐帝が鎌倉幕府討幕の疑いをかけられた正中の変(元亨4年(1324年))において、鎌倉に後醍醐側の特使として派遣されて釈明を行い、主君の無罪判決を得たことである。建武政権では雑訴決断所頭人を務めた。しかし南北朝の内乱では後醍醐天皇が開いた南朝には合流せず、京都に残留したと見られている。日記史料に『万一記』がある。 (ja)
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  • 中納言親実室、菊池武士母 (ja)
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  • 正嘉2年(1258年) (ja)
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  • (「後醍醐天皇像」の一部、大徳寺所蔵) (ja)
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  • 万里小路 宣房(までのこうじ のぶふさ)は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけての公卿。従三位・万里小路資通の子。官位は従一位・大納言。北畠親房・吉田定房と共に、後醍醐天皇の側近「後の三房」の一人に数えられる。主な業績は、後醍醐帝が鎌倉幕府討幕の疑いをかけられた正中の変(元亨4年(1324年))において、鎌倉に後醍醐側の特使として派遣されて釈明を行い、主君の無罪判決を得たことである。建武政権では雑訴決断所頭人を務めた。しかし南北朝の内乱では後醍醐天皇が開いた南朝には合流せず、京都に残留したと見られている。日記史料に『万一記』がある。 (ja)
  • 万里小路 宣房(までのこうじ のぶふさ)は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけての公卿。従三位・万里小路資通の子。官位は従一位・大納言。北畠親房・吉田定房と共に、後醍醐天皇の側近「後の三房」の一人に数えられる。主な業績は、後醍醐帝が鎌倉幕府討幕の疑いをかけられた正中の変(元亨4年(1324年))において、鎌倉に後醍醐側の特使として派遣されて釈明を行い、主君の無罪判決を得たことである。建武政権では雑訴決断所頭人を務めた。しかし南北朝の内乱では後醍醐天皇が開いた南朝には合流せず、京都に残留したと見られている。日記史料に『万一記』がある。 (ja)
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