一如(いちにょ)とは、絶対的に同一である真実の姿、という意味の仏教用語である。 「一」は絶対唯一、「如」は真如(tathā)・如同の意で、一異の差別なく平等であることをいう。世間における一切の事物・現象には実相(真実の姿)があり、普遍的に不二同一であることをいう。平たく読めば「一つの如し」となる。一でありつつそれは異なるが、異なりつつもそれはそれは一であるという、真如を弁証法的に表現した語である。 もとは老荘思想の概念であり、万物を生成し存在している真実の相、またその差別相を超越した存在義を意味する。 のちに、本来の仏教用語から派生し、剣禅一如などとも転用されるようになった。

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  • 一如(いちにょ)とは、絶対的に同一である真実の姿、という意味の仏教用語である。 「一」は絶対唯一、「如」は真如(tathā)・如同の意で、一異の差別なく平等であることをいう。世間における一切の事物・現象には実相(真実の姿)があり、普遍的に不二同一であることをいう。平たく読めば「一つの如し」となる。一でありつつそれは異なるが、異なりつつもそれはそれは一であるという、真如を弁証法的に表現した語である。 もとは老荘思想の概念であり、万物を生成し存在している真実の相、またその差別相を超越した存在義を意味する。 のちに、本来の仏教用語から派生し、剣禅一如などとも転用されるようになった。 (ja)
  • 一如(いちにょ)とは、絶対的に同一である真実の姿、という意味の仏教用語である。 「一」は絶対唯一、「如」は真如(tathā)・如同の意で、一異の差別なく平等であることをいう。世間における一切の事物・現象には実相(真実の姿)があり、普遍的に不二同一であることをいう。平たく読めば「一つの如し」となる。一でありつつそれは異なるが、異なりつつもそれはそれは一であるという、真如を弁証法的に表現した語である。 もとは老荘思想の概念であり、万物を生成し存在している真実の相、またその差別相を超越した存在義を意味する。 のちに、本来の仏教用語から派生し、剣禅一如などとも転用されるようになった。 (ja)
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  • 一如(いちにょ)とは、絶対的に同一である真実の姿、という意味の仏教用語である。 「一」は絶対唯一、「如」は真如(tathā)・如同の意で、一異の差別なく平等であることをいう。世間における一切の事物・現象には実相(真実の姿)があり、普遍的に不二同一であることをいう。平たく読めば「一つの如し」となる。一でありつつそれは異なるが、異なりつつもそれはそれは一であるという、真如を弁証法的に表現した語である。 もとは老荘思想の概念であり、万物を生成し存在している真実の相、またその差別相を超越した存在義を意味する。 のちに、本来の仏教用語から派生し、剣禅一如などとも転用されるようになった。 (ja)
  • 一如(いちにょ)とは、絶対的に同一である真実の姿、という意味の仏教用語である。 「一」は絶対唯一、「如」は真如(tathā)・如同の意で、一異の差別なく平等であることをいう。世間における一切の事物・現象には実相(真実の姿)があり、普遍的に不二同一であることをいう。平たく読めば「一つの如し」となる。一でありつつそれは異なるが、異なりつつもそれはそれは一であるという、真如を弁証法的に表現した語である。 もとは老荘思想の概念であり、万物を生成し存在している真実の相、またその差別相を超越した存在義を意味する。 のちに、本来の仏教用語から派生し、剣禅一如などとも転用されるようになった。 (ja)
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  • 一如 (ja)
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