ムバーラク・シャーは、チャガタイ家の第6代君主(在位:1266年)。 父は第2代君主カラ・フレグ。監国として国政を執ったオルガナを母に持つ。イスラム教徒であり、篤実で公正な人物と伝えられる。ムバーラク・シャーの即位は慣例に従った地であるイリ河畔のオルドではなく、イスラーム文化の中心地であるアングレン河畔で行われた。しかし、ムバーラク・シャーの改宗がウルス全体に影響を及ぼしたかについては疑問視されている。 母のオルガナはアルグによって廃位された後にそのアルグの妃になり、アルグにチャガタイ家の当主となる大義名分と引き換えに、ムバーラク・シャーの後継者としての地位を確保した。1266年にアルグが死去すると、チャガタイ家内部の総意によって当主に選出された。しかし、中央アジアとチャガタイ家の統制を図るクビライが、彼に近侍していたバラクをムバーラク・シャーの共同統治者として派遣すると事態は変化する。ムバーラク・シャーはバラクによって廃位され、ケシクの鷹匠(シバウチ)に落とされた。 バラク没後はアルグの遺児のカバン、チュベイ兄弟と共にオゴデイ家のカイドゥの元に投じ、彼を「アカ」(モンゴル語で「兄」を意味する)に奉じて、チャガタイ家の指導者として推戴した。 後にムバーラク・シャーはイルハン朝に亡命し、カラウナス(ニークダーリヤーン)軍団の長としてガズナ方面に駐屯し、生涯を終える。

Property Value
dbo:abstract
  • ムバーラク・シャーは、チャガタイ家の第6代君主(在位:1266年)。 父は第2代君主カラ・フレグ。監国として国政を執ったオルガナを母に持つ。イスラム教徒であり、篤実で公正な人物と伝えられる。ムバーラク・シャーの即位は慣例に従った地であるイリ河畔のオルドではなく、イスラーム文化の中心地であるアングレン河畔で行われた。しかし、ムバーラク・シャーの改宗がウルス全体に影響を及ぼしたかについては疑問視されている。 母のオルガナはアルグによって廃位された後にそのアルグの妃になり、アルグにチャガタイ家の当主となる大義名分と引き換えに、ムバーラク・シャーの後継者としての地位を確保した。1266年にアルグが死去すると、チャガタイ家内部の総意によって当主に選出された。しかし、中央アジアとチャガタイ家の統制を図るクビライが、彼に近侍していたバラクをムバーラク・シャーの共同統治者として派遣すると事態は変化する。ムバーラク・シャーはバラクによって廃位され、ケシクの鷹匠(シバウチ)に落とされた。 バラク没後はアルグの遺児のカバン、チュベイ兄弟と共にオゴデイ家のカイドゥの元に投じ、彼を「アカ」(モンゴル語で「兄」を意味する)に奉じて、チャガタイ家の指導者として推戴した。 後にムバーラク・シャーはイルハン朝に亡命し、カラウナス(ニークダーリヤーン)軍団の長としてガズナ方面に駐屯し、生涯を終える。 (ja)
  • ムバーラク・シャーは、チャガタイ家の第6代君主(在位:1266年)。 父は第2代君主カラ・フレグ。監国として国政を執ったオルガナを母に持つ。イスラム教徒であり、篤実で公正な人物と伝えられる。ムバーラク・シャーの即位は慣例に従った地であるイリ河畔のオルドではなく、イスラーム文化の中心地であるアングレン河畔で行われた。しかし、ムバーラク・シャーの改宗がウルス全体に影響を及ぼしたかについては疑問視されている。 母のオルガナはアルグによって廃位された後にそのアルグの妃になり、アルグにチャガタイ家の当主となる大義名分と引き換えに、ムバーラク・シャーの後継者としての地位を確保した。1266年にアルグが死去すると、チャガタイ家内部の総意によって当主に選出された。しかし、中央アジアとチャガタイ家の統制を図るクビライが、彼に近侍していたバラクをムバーラク・シャーの共同統治者として派遣すると事態は変化する。ムバーラク・シャーはバラクによって廃位され、ケシクの鷹匠(シバウチ)に落とされた。 バラク没後はアルグの遺児のカバン、チュベイ兄弟と共にオゴデイ家のカイドゥの元に投じ、彼を「アカ」(モンゴル語で「兄」を意味する)に奉じて、チャガタイ家の指導者として推戴した。 後にムバーラク・シャーはイルハン朝に亡命し、カラウナス(ニークダーリヤーン)軍団の長としてガズナ方面に駐屯し、生涯を終える。 (ja)
dbo:wikiPageID
  • 2079961 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 1664 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 85768393 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
dct:subject
rdfs:comment
  • ムバーラク・シャーは、チャガタイ家の第6代君主(在位:1266年)。 父は第2代君主カラ・フレグ。監国として国政を執ったオルガナを母に持つ。イスラム教徒であり、篤実で公正な人物と伝えられる。ムバーラク・シャーの即位は慣例に従った地であるイリ河畔のオルドではなく、イスラーム文化の中心地であるアングレン河畔で行われた。しかし、ムバーラク・シャーの改宗がウルス全体に影響を及ぼしたかについては疑問視されている。 母のオルガナはアルグによって廃位された後にそのアルグの妃になり、アルグにチャガタイ家の当主となる大義名分と引き換えに、ムバーラク・シャーの後継者としての地位を確保した。1266年にアルグが死去すると、チャガタイ家内部の総意によって当主に選出された。しかし、中央アジアとチャガタイ家の統制を図るクビライが、彼に近侍していたバラクをムバーラク・シャーの共同統治者として派遣すると事態は変化する。ムバーラク・シャーはバラクによって廃位され、ケシクの鷹匠(シバウチ)に落とされた。 バラク没後はアルグの遺児のカバン、チュベイ兄弟と共にオゴデイ家のカイドゥの元に投じ、彼を「アカ」(モンゴル語で「兄」を意味する)に奉じて、チャガタイ家の指導者として推戴した。 後にムバーラク・シャーはイルハン朝に亡命し、カラウナス(ニークダーリヤーン)軍団の長としてガズナ方面に駐屯し、生涯を終える。 (ja)
  • ムバーラク・シャーは、チャガタイ家の第6代君主(在位:1266年)。 父は第2代君主カラ・フレグ。監国として国政を執ったオルガナを母に持つ。イスラム教徒であり、篤実で公正な人物と伝えられる。ムバーラク・シャーの即位は慣例に従った地であるイリ河畔のオルドではなく、イスラーム文化の中心地であるアングレン河畔で行われた。しかし、ムバーラク・シャーの改宗がウルス全体に影響を及ぼしたかについては疑問視されている。 母のオルガナはアルグによって廃位された後にそのアルグの妃になり、アルグにチャガタイ家の当主となる大義名分と引き換えに、ムバーラク・シャーの後継者としての地位を確保した。1266年にアルグが死去すると、チャガタイ家内部の総意によって当主に選出された。しかし、中央アジアとチャガタイ家の統制を図るクビライが、彼に近侍していたバラクをムバーラク・シャーの共同統治者として派遣すると事態は変化する。ムバーラク・シャーはバラクによって廃位され、ケシクの鷹匠(シバウチ)に落とされた。 バラク没後はアルグの遺児のカバン、チュベイ兄弟と共にオゴデイ家のカイドゥの元に投じ、彼を「アカ」(モンゴル語で「兄」を意味する)に奉じて、チャガタイ家の指導者として推戴した。 後にムバーラク・シャーはイルハン朝に亡命し、カラウナス(ニークダーリヤーン)軍団の長としてガズナ方面に駐屯し、生涯を終える。 (ja)
rdfs:label
  • ムバーラク・シャー (チャガタイ家) (ja)
  • ムバーラク・シャー (チャガタイ家) (ja)
owl:sameAs
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of