アブル=アッバース・アフマド・ブン・タルハ(アラビア語: أبو العباس أحمد بن طلحة‎, ラテン文字転写: Abuʿl-ʿAbbās Aḥmad b. Ṭalḥa, 854年頃もしくは861年頃 - 902年4月5日)、またはラカブでアル=ムウタディド・ビッ=ラーフ(アラビア語: المعتضد بالله‎, ラテン文字転写: al-Muʿtaḍid Biʿllāh,「神に支えを求める者」の意)は、第16代のアッバース朝のカリフである(在位:892年10月 - 902年4月5日)。

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  • アブル=アッバース・アフマド・ブン・タルハ(アラビア語: أبو العباس أحمد بن طلحة‎, ラテン文字転写: Abuʿl-ʿAbbās Aḥmad b. Ṭalḥa, 854年頃もしくは861年頃 - 902年4月5日)、またはラカブでアル=ムウタディド・ビッ=ラーフ(アラビア語: المعتضد بالله‎, ラテン文字転写: al-Muʿtaḍid Biʿllāh,「神に支えを求める者」の意)は、第16代のアッバース朝のカリフである(在位:892年10月 - 902年4月5日)。 ムウタディドは叔父のムウタミドの治世下で執政として実権を握り、事実上のアッバース朝の統治者となったムウタミドの兄弟のの息子である。アッバース朝の王子としてムウタディドは父親の下でさまざまな軍事活動に従事し、特にザンジュの乱の鎮圧において重要な役割を果たした。ムワッファクは891年6月に死去し、ムウタディドが執政としてムワッファクの後を継いだ。その後はムウタミドの息子で後継者と目されていたを後継者の立場から遠ざけ、892年10月のムウタミドの死去後にカリフの地位を継承した。父親と同様にムウタディドの権力は軍との間の緊密な関係に依存していた。当初この関係はザンジュの乱に対する軍事行動中に築かれ、後にカリフが直接主導した遠征活動によって強化された。ムウタディドはその行動力と能力を通じて、過去数十年の混乱の中で失われた権力といくつかの地方をアッバース朝の下へ取り戻すことに成功した。 ムウタディドは一連の軍事行動によってジャズィーラ、、およびの各地方の支配を回復し、東方のサッファール朝と西方のトゥールーン朝に対しては条約を結ぶことで和解を実現した。これらの成功は財政をほぼ独占的に軍隊の維持へ向けることによってもたらされたが、一方では財政基盤の再建に向けた取り組みが財務官僚機構の肥大化を招き、結果として強欲なカリフであるという評判が定着することになった。また、首都をサーマッラーからムウタディドが重要な建築活動に携わったバグダードへ戻した。ムウタディドは犯罪者を処罰する際の過酷さで有名であり、後に年代記作者たちはムウタディドの数多くの独創的な拷問方法を記録した。そしてスンニ派の神学の確固たる支持者であったにもかかわらず、ザイド派などのシーア派勢力との良好な関係の維持に努め、さらには自然科学に興味を示して学者や科学者へのカリフによる支援を再開させた。 しかし、これらの成功にもかかわらず、ムウタディドの治世は最終的にかなり短いものに終わったために、王朝の運勢を長期的な好転に導くことはできなかった。また、ムウタディドが主導したアッバース朝の再生は、自身の精力的な行動力に大きく依存していた。優秀とは言えない後継者の息子であるの短い治世は、主にトゥールーン朝の領土の併合などいくつかの重要な成果を挙げたが、後継者たちはムウタディド程の行動力を持ち合わせず、新たな敵対勢力としてカルマト派の台頭を見ることになった。そしてムウタディドの治世の後半に明白となった官僚機構内部の派閥抗争の激化が続く数十年にわたってアッバース朝政府を弱体化させ、最終的には一連の軍の有力者たちの下での王朝の従属化につながり、この趨勢は946年のブワイフ朝によるバグダードの征服によって最高潮に達することになった。 (ja)
  • アブル=アッバース・アフマド・ブン・タルハ(アラビア語: أبو العباس أحمد بن طلحة‎, ラテン文字転写: Abuʿl-ʿAbbās Aḥmad b. Ṭalḥa, 854年頃もしくは861年頃 - 902年4月5日)、またはラカブでアル=ムウタディド・ビッ=ラーフ(アラビア語: المعتضد بالله‎, ラテン文字転写: al-Muʿtaḍid Biʿllāh,「神に支えを求める者」の意)は、第16代のアッバース朝のカリフである(在位:892年10月 - 902年4月5日)。 ムウタディドは叔父のムウタミドの治世下で執政として実権を握り、事実上のアッバース朝の統治者となったムウタミドの兄弟のの息子である。アッバース朝の王子としてムウタディドは父親の下でさまざまな軍事活動に従事し、特にザンジュの乱の鎮圧において重要な役割を果たした。ムワッファクは891年6月に死去し、ムウタディドが執政としてムワッファクの後を継いだ。その後はムウタミドの息子で後継者と目されていたを後継者の立場から遠ざけ、892年10月のムウタミドの死去後にカリフの地位を継承した。父親と同様にムウタディドの権力は軍との間の緊密な関係に依存していた。当初この関係はザンジュの乱に対する軍事行動中に築かれ、後にカリフが直接主導した遠征活動によって強化された。ムウタディドはその行動力と能力を通じて、過去数十年の混乱の中で失われた権力といくつかの地方をアッバース朝の下へ取り戻すことに成功した。 ムウタディドは一連の軍事行動によってジャズィーラ、、およびの各地方の支配を回復し、東方のサッファール朝と西方のトゥールーン朝に対しては条約を結ぶことで和解を実現した。これらの成功は財政をほぼ独占的に軍隊の維持へ向けることによってもたらされたが、一方では財政基盤の再建に向けた取り組みが財務官僚機構の肥大化を招き、結果として強欲なカリフであるという評判が定着することになった。また、首都をサーマッラーからムウタディドが重要な建築活動に携わったバグダードへ戻した。ムウタディドは犯罪者を処罰する際の過酷さで有名であり、後に年代記作者たちはムウタディドの数多くの独創的な拷問方法を記録した。そしてスンニ派の神学の確固たる支持者であったにもかかわらず、ザイド派などのシーア派勢力との良好な関係の維持に努め、さらには自然科学に興味を示して学者や科学者へのカリフによる支援を再開させた。 しかし、これらの成功にもかかわらず、ムウタディドの治世は最終的にかなり短いものに終わったために、王朝の運勢を長期的な好転に導くことはできなかった。また、ムウタディドが主導したアッバース朝の再生は、自身の精力的な行動力に大きく依存していた。優秀とは言えない後継者の息子であるの短い治世は、主にトゥールーン朝の領土の併合などいくつかの重要な成果を挙げたが、後継者たちはムウタディド程の行動力を持ち合わせず、新たな敵対勢力としてカルマト派の台頭を見ることになった。そしてムウタディドの治世の後半に明白となった官僚機構内部の派閥抗争の激化が続く数十年にわたってアッバース朝政府を弱体化させ、最終的には一連の軍の有力者たちの下での王朝の従属化につながり、この趨勢は946年のブワイフ朝によるバグダードの征服によって最高潮に達することになった。 (ja)
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  • ムウタディドがカリフになると不和はなくなり、地方は再び従順になり、戦争は止まり、物価は下がり、混乱は収まった。反抗する者たちは新しいカリフに屈服し、権力は勝利によって確固なものとなり、東方と西方ではその存在が認められ、敵対者たちや勢力を争った者たちのほとんどがムウタディドの威光に敬意を表した。 (ja)
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