ニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceaușescu, ルーマニア語: [nikoˈla.e tʃe̯a.uˈʃesku]; 1918年1月26日– 1989年12月25日) は、ルーマニアの共産政治家。ルーマニア社会主義共和国大統領、ルーマニア共産党書記長、ルーマニア国家評議会第3代目議長を歴任した。 王制時代のルーマニアの貧しい農家に生まれ、早くから共産主義運動に関わった。ルーマニア共産党に入党し、数回逮捕され、第二次世界大戦中は収容所暮らしを送った。戦後、ルーマニア共産党が権力を握ると、ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)による指導のもと、共産党内で出世していった。1965年3月にゲオルギウ=デジが死ぬと、チャウシェスクはゲオルギウ=デジの後継者としてルーマニア共産党書記長に就任し、権力を掌握した。

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  • ニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceaușescu, ルーマニア語: [nikoˈla.e tʃe̯a.uˈʃesku]; 1918年1月26日– 1989年12月25日) は、ルーマニアの共産政治家。ルーマニア社会主義共和国大統領、ルーマニア共産党書記長、ルーマニア国家評議会第3代目議長を歴任した。 王制時代のルーマニアの貧しい農家に生まれ、早くから共産主義運動に関わった。ルーマニア共産党に入党し、数回逮捕され、第二次世界大戦中は収容所暮らしを送った。戦後、ルーマニア共産党が権力を握ると、ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)による指導のもと、共産党内で出世していった。1965年3月にゲオルギウ=デジが死ぬと、チャウシェスクはゲオルギウ=デジの後継者としてルーマニア共産党書記長に就任し、権力を掌握した。 権力の座に就いたころのチャウシェスクは報道の検閲を緩和したり、党のイデオロギーに反しない限り、表現の自由を認め、東ヨーロッパの共産陣営の中でも比較的自由な気風が見られた。しかし、1971年に訪問先の中国と北朝鮮で強烈な個人崇拝を目の当たりにし、それに影響されたチャウシェスクのルーマニアは、まもなく全体主義の色を帯びるようになった。秘密警察・セクリターテ(Securitate)がルーマニア国内における大規模な監視と冷酷な抑圧を担当して国民を従わせ、報道機関を統制下に置き、ルーマニアは東ヨーロッパの国々の中で最も抑圧的な国と見なされるようになった。 チャウシェスクはルーマニアの人口を大幅に増やす政策を実施しようとした。チャウシェスクは1966年に法律を制定し、避妊を禁止する「法令第770号」(Decretul 770)を可決した。子供のいない女性による妊娠中絶を禁止し、子供がいない25歳以上の女性と男性に対しては、30%近くの所得税を課した。子供が5人未満の女性への避妊薬の販売は禁止となり、離婚については例外的な事例のみ、認められた。子供を5人以上産んだ女性には、国から物資の援助を受ける権利が生じ、10人以上産んだ場合、「母親英雄」(Мать-Героиня)の勲章を授与された。しかし実際には、女性の多くは望まぬ妊娠を避け、秘密裏に堕胎しようとして怪我を負ったり、死亡したりした。チャウシェスクは労働力を増やそうと考えており、自国民の家族や胎児のことを心配していたわけではなかった。さらに、国の養護施設に子供が預けられたことで、孤児だけでなく、HIV感染までもが増加した。 チャウシェスクは前任者のゲオルギウ=デジの方針を踏襲する形で、自国ルーマニアをソ連から独立させようとした。チャウシェスクによる指導のもと、外国の資本の参入を認め、国際金融機関から融資を受けたルーマニアは経済成長を見せ、農業国から工業国への転身を果たしたが、1970年代の石油危機が契機となり、ルーマニアの抱える対外債務の額は飛躍的に増大した。対外債務を返済するため、チャウシェスクは農作物や工業製品の輸出量を増やすよう、政府に指示を出した。それに伴って慢性的な物資不足が続き、水、油、熱、電気、医薬品、その他の生活必需品について、政府は配給制を導入するほどになり、国民の生活水準は目に見えて低下していった。その一方で、ニコラエ・チャウシェスクと妻エレナ・チャウシェスク(Elena Ceaușescu)の二人に対する個人崇拝は前例が無いほどに強まった。ミハイル・ゴルバチョフ(Михаил Горбачев)が打ち出した「ペレストロイカ」(Перестройка)をチャウシェスクが公然と批判したことにより、ルーマニアとソ連の外交関係の悪化は深刻なものとなった。 1989年12月、ティミショアラ(Timișoara)に住むハンガリー人の牧師への立ち退き命令に対する抗議運動が始まり、ひいてはここから暴動・革命運動に発展していった。12月17日、ルーマニア陸軍、民兵、治安部隊が出動し、抗議集団に対して発砲し、死傷者が出始めた。イランを訪問する予定であったチャウシェスクは、12月18日、暴動の鎮圧を命じ、イランに向かった。帰国後の12月20日、チャウシェスクはテレビ演説を行い、「ティミショアラで始まった暴動は、ルーマニアの主権を有名無実化させようと企む帝国主義者の団体と外国の諜報機関からの支援を受けて組織されたものだ」と訴えた。12月22日の朝の時点で、チャウシェスクに反対する気運の高まりと抗議行動はルーマニア国内の全主要都市に拡大していた。この日の正午、ニコラエとエレナの二人は、ルーマニア共産党中央委員会の建物の屋上からヘリコプターに乗って逃亡、首都・ブクレシュティ(București)から脱出してトゥルゴヴィシュテ(Târgoviște)に着くも、その日のうちに軍隊に捕縛された。イオン・イリエスク(Ion Iliescu)が議長となった救国戦線評議会(Consiliului Frontului Salvării Naţionale)による決定に基づき、チャウシェスク夫妻は裁判にかけられた。チャウシェスク夫妻は、国家に対する犯罪、自国民の大量虐殺、外国の銀行に秘密口座の開設、ならびに「国民経済を弱体化させた」容疑で起訴され、夫婦の全財産没収ならびに死刑を宣告されたのち、ニコラエとエレナの両名は銃殺刑に処せられた。 (ja)
  • ニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceaușescu, ルーマニア語: [nikoˈla.e tʃe̯a.uˈʃesku]; 1918年1月26日– 1989年12月25日) は、ルーマニアの共産政治家。ルーマニア社会主義共和国大統領、ルーマニア共産党書記長、ルーマニア国家評議会第3代目議長を歴任した。 王制時代のルーマニアの貧しい農家に生まれ、早くから共産主義運動に関わった。ルーマニア共産党に入党し、数回逮捕され、第二次世界大戦中は収容所暮らしを送った。戦後、ルーマニア共産党が権力を握ると、ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)による指導のもと、共産党内で出世していった。1965年3月にゲオルギウ=デジが死ぬと、チャウシェスクはゲオルギウ=デジの後継者としてルーマニア共産党書記長に就任し、権力を掌握した。 権力の座に就いたころのチャウシェスクは報道の検閲を緩和したり、党のイデオロギーに反しない限り、表現の自由を認め、東ヨーロッパの共産陣営の中でも比較的自由な気風が見られた。しかし、1971年に訪問先の中国と北朝鮮で強烈な個人崇拝を目の当たりにし、それに影響されたチャウシェスクのルーマニアは、まもなく全体主義の色を帯びるようになった。秘密警察・セクリターテ(Securitate)がルーマニア国内における大規模な監視と冷酷な抑圧を担当して国民を従わせ、報道機関を統制下に置き、ルーマニアは東ヨーロッパの国々の中で最も抑圧的な国と見なされるようになった。 チャウシェスクはルーマニアの人口を大幅に増やす政策を実施しようとした。チャウシェスクは1966年に法律を制定し、避妊を禁止する「法令第770号」(Decretul 770)を可決した。子供のいない女性による妊娠中絶を禁止し、子供がいない25歳以上の女性と男性に対しては、30%近くの所得税を課した。子供が5人未満の女性への避妊薬の販売は禁止となり、離婚については例外的な事例のみ、認められた。子供を5人以上産んだ女性には、国から物資の援助を受ける権利が生じ、10人以上産んだ場合、「母親英雄」(Мать-Героиня)の勲章を授与された。しかし実際には、女性の多くは望まぬ妊娠を避け、秘密裏に堕胎しようとして怪我を負ったり、死亡したりした。チャウシェスクは労働力を増やそうと考えており、自国民の家族や胎児のことを心配していたわけではなかった。さらに、国の養護施設に子供が預けられたことで、孤児だけでなく、HIV感染までもが増加した。 チャウシェスクは前任者のゲオルギウ=デジの方針を踏襲する形で、自国ルーマニアをソ連から独立させようとした。チャウシェスクによる指導のもと、外国の資本の参入を認め、国際金融機関から融資を受けたルーマニアは経済成長を見せ、農業国から工業国への転身を果たしたが、1970年代の石油危機が契機となり、ルーマニアの抱える対外債務の額は飛躍的に増大した。対外債務を返済するため、チャウシェスクは農作物や工業製品の輸出量を増やすよう、政府に指示を出した。それに伴って慢性的な物資不足が続き、水、油、熱、電気、医薬品、その他の生活必需品について、政府は配給制を導入するほどになり、国民の生活水準は目に見えて低下していった。その一方で、ニコラエ・チャウシェスクと妻エレナ・チャウシェスク(Elena Ceaușescu)の二人に対する個人崇拝は前例が無いほどに強まった。ミハイル・ゴルバチョフ(Михаил Горбачев)が打ち出した「ペレストロイカ」(Перестройка)をチャウシェスクが公然と批判したことにより、ルーマニアとソ連の外交関係の悪化は深刻なものとなった。 1989年12月、ティミショアラ(Timișoara)に住むハンガリー人の牧師への立ち退き命令に対する抗議運動が始まり、ひいてはここから暴動・革命運動に発展していった。12月17日、ルーマニア陸軍、民兵、治安部隊が出動し、抗議集団に対して発砲し、死傷者が出始めた。イランを訪問する予定であったチャウシェスクは、12月18日、暴動の鎮圧を命じ、イランに向かった。帰国後の12月20日、チャウシェスクはテレビ演説を行い、「ティミショアラで始まった暴動は、ルーマニアの主権を有名無実化させようと企む帝国主義者の団体と外国の諜報機関からの支援を受けて組織されたものだ」と訴えた。12月22日の朝の時点で、チャウシェスクに反対する気運の高まりと抗議行動はルーマニア国内の全主要都市に拡大していた。この日の正午、ニコラエとエレナの二人は、ルーマニア共産党中央委員会の建物の屋上からヘリコプターに乗って逃亡、首都・ブクレシュティ(București)から脱出してトゥルゴヴィシュテ(Târgoviște)に着くも、その日のうちに軍隊に捕縛された。イオン・イリエスク(Ion Iliescu)が議長となった救国戦線評議会(Consiliului Frontului Salvării Naţionale)による決定に基づき、チャウシェスク夫妻は裁判にかけられた。チャウシェスク夫妻は、国家に対する犯罪、自国民の大量虐殺、外国の銀行に秘密口座の開設、ならびに「国民経済を弱体化させた」容疑で起訴され、夫婦の全財産没収ならびに死刑を宣告されたのち、ニコラエとエレナの両名は銃殺刑に処せられた。 (ja)
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  • ルーマニア社会主義共和国大統領 (ja)
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  • 国防副大臣 (ja)
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  • ニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceaușescu, ルーマニア語: [nikoˈla.e tʃe̯a.uˈʃesku]; 1918年1月26日– 1989年12月25日) は、ルーマニアの共産政治家。ルーマニア社会主義共和国大統領、ルーマニア共産党書記長、ルーマニア国家評議会第3代目議長を歴任した。 王制時代のルーマニアの貧しい農家に生まれ、早くから共産主義運動に関わった。ルーマニア共産党に入党し、数回逮捕され、第二次世界大戦中は収容所暮らしを送った。戦後、ルーマニア共産党が権力を握ると、ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)による指導のもと、共産党内で出世していった。1965年3月にゲオルギウ=デジが死ぬと、チャウシェスクはゲオルギウ=デジの後継者としてルーマニア共産党書記長に就任し、権力を掌握した。 (ja)
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