セルビア帝国(セルビアていこく、セルビア語: Српско Царство)は、セルビア王国ネマニッチ朝の君主ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの皇帝即位により1346年に成立した帝国。 東ローマ帝国ではアンドロニコス2世パレオロゴスとアンドロニコス3世パレオロゴスによる内紛が起こり、勢力が減退していた。一方、ウロシュ4世はアルバニアとマケドニアを奪取して、セルビア王国の最大領土を形成した。さらにその拡大した勢力を背景として1345年、「セルビア人とローマ人の皇帝」と称してセルビア主教を総主教に格上げし、翌年には皇帝として即位した。そして1349年には『ドゥシャン法典』を発布して、セルビア帝国の最盛期を築き上げた。 しかしウロシュ4世の死後、セルビア帝国は急速に衰退する。ウロシュ4世の息子ステファン・ウロシュ5世は単独で帝位を維持しきれず、のヴカシンとの共同統治となる。その後ウロシュ5世が死去してネマニッチ朝は断絶し、帝国は解体した。 その後、国家はラザル・フレベリャノヴィチのセルビア公国に引き継がれる。1402年までセルビアの一部地域にて、の皇位を主張したウロシュ5世の後継者もいたが、ギリシアの領土が回復することはなかった。

Property Value
dbo:abstract
  • セルビア帝国(セルビアていこく、セルビア語: Српско Царство)は、セルビア王国ネマニッチ朝の君主ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの皇帝即位により1346年に成立した帝国。 東ローマ帝国ではアンドロニコス2世パレオロゴスとアンドロニコス3世パレオロゴスによる内紛が起こり、勢力が減退していた。一方、ウロシュ4世はアルバニアとマケドニアを奪取して、セルビア王国の最大領土を形成した。さらにその拡大した勢力を背景として1345年、「セルビア人とローマ人の皇帝」と称してセルビア主教を総主教に格上げし、翌年には皇帝として即位した。そして1349年には『ドゥシャン法典』を発布して、セルビア帝国の最盛期を築き上げた。 しかしウロシュ4世の死後、セルビア帝国は急速に衰退する。ウロシュ4世の息子ステファン・ウロシュ5世は単独で帝位を維持しきれず、のヴカシンとの共同統治となる。その後ウロシュ5世が死去してネマニッチ朝は断絶し、帝国は解体した。 その後、国家はラザル・フレベリャノヴィチのセルビア公国に引き継がれる。1402年までセルビアの一部地域にて、の皇位を主張したウロシュ5世の後継者もいたが、ギリシアの領土が回復することはなかった。 (ja)
  • セルビア帝国(セルビアていこく、セルビア語: Српско Царство)は、セルビア王国ネマニッチ朝の君主ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの皇帝即位により1346年に成立した帝国。 東ローマ帝国ではアンドロニコス2世パレオロゴスとアンドロニコス3世パレオロゴスによる内紛が起こり、勢力が減退していた。一方、ウロシュ4世はアルバニアとマケドニアを奪取して、セルビア王国の最大領土を形成した。さらにその拡大した勢力を背景として1345年、「セルビア人とローマ人の皇帝」と称してセルビア主教を総主教に格上げし、翌年には皇帝として即位した。そして1349年には『ドゥシャン法典』を発布して、セルビア帝国の最盛期を築き上げた。 しかしウロシュ4世の死後、セルビア帝国は急速に衰退する。ウロシュ4世の息子ステファン・ウロシュ5世は単独で帝位を維持しきれず、のヴカシンとの共同統治となる。その後ウロシュ5世が死去してネマニッチ朝は断絶し、帝国は解体した。 その後、国家はラザル・フレベリャノヴィチのセルビア公国に引き継がれる。1402年までセルビアの一部地域にて、の皇位を主張したウロシュ5世の後継者もいたが、ギリシアの領土が回復することはなかった。 (ja)
dbo:thumbnail
dbo:wikiPageExternalLink
dbo:wikiPageID
  • 1682132 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 8450 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 89159588 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
prop-ja:亡国時期
  • 1371 (xsd:integer)
prop-ja:位置画像
  • Serbia 1360 en.png (ja)
  • Serbia 1360 en.png (ja)
prop-ja:位置画像説明
  • 1360 (xsd:integer)
prop-ja:元首等年代始
  • 1346 (xsd:integer)
  • 1355 (xsd:integer)
prop-ja:元首等年代終
  • 1355 (xsd:integer)
  • 1371 (xsd:integer)
prop-ja:元首等氏名
prop-ja:元首等肩書
prop-ja:先代
  • セルビア王国 (ja)
  • セルビア王国 (ja)
prop-ja:先旗
  • Flag of Serbia .svg (ja)
  • Flag of Serbia .svg (ja)
prop-ja:公式国名
  • the Serbian Empire (ja)
  • Српско Царство (ja)
  • the Serbian Empire (ja)
  • Српско Царство (ja)
prop-ja:公用語
prop-ja:国旗幅
  • 125 (xsd:integer)
prop-ja:国旗画像
  • Flag of the Serbian Empire, reconstruction.svg (ja)
  • Flag of the Serbian Empire, reconstruction.svg (ja)
prop-ja:国章幅
  • 85 (xsd:integer)
prop-ja:国章画像
  • Imperial Coat of arms of Serbia .svg (ja)
  • Imperial Coat of arms of Serbia .svg (ja)
prop-ja:変遷
prop-ja:変遷年月日
  • 1346 (xsd:integer)
  • 1349 (xsd:integer)
  • 1355 (xsd:integer)
  • 1371 (xsd:integer)
prop-ja:宗教
  • キリスト教セルビア正教会 (ja)
  • キリスト教セルビア正教会 (ja)
prop-ja:建国時期
  • 1346 (xsd:integer)
prop-ja:日本語国名
  • セルビア帝国 (ja)
  • セルビア帝国 (ja)
prop-ja:次代
  • セルビア公国 (ja)
  • セルビア公国 (ja)
prop-ja:次旗
  • Supposed Flag of the House of Crnojevic.svg (ja)
  • Supposed Flag of the House of Crnojevic.svg (ja)
prop-ja:略名
  • セルビア (ja)
  • セルビア (ja)
prop-ja:通貨
prop-ja:面積値
  • 250000 (xsd:integer)
prop-ja:首都
dct:subject
rdfs:comment
  • セルビア帝国(セルビアていこく、セルビア語: Српско Царство)は、セルビア王国ネマニッチ朝の君主ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの皇帝即位により1346年に成立した帝国。 東ローマ帝国ではアンドロニコス2世パレオロゴスとアンドロニコス3世パレオロゴスによる内紛が起こり、勢力が減退していた。一方、ウロシュ4世はアルバニアとマケドニアを奪取して、セルビア王国の最大領土を形成した。さらにその拡大した勢力を背景として1345年、「セルビア人とローマ人の皇帝」と称してセルビア主教を総主教に格上げし、翌年には皇帝として即位した。そして1349年には『ドゥシャン法典』を発布して、セルビア帝国の最盛期を築き上げた。 しかしウロシュ4世の死後、セルビア帝国は急速に衰退する。ウロシュ4世の息子ステファン・ウロシュ5世は単独で帝位を維持しきれず、のヴカシンとの共同統治となる。その後ウロシュ5世が死去してネマニッチ朝は断絶し、帝国は解体した。 その後、国家はラザル・フレベリャノヴィチのセルビア公国に引き継がれる。1402年までセルビアの一部地域にて、の皇位を主張したウロシュ5世の後継者もいたが、ギリシアの領土が回復することはなかった。 (ja)
  • セルビア帝国(セルビアていこく、セルビア語: Српско Царство)は、セルビア王国ネマニッチ朝の君主ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの皇帝即位により1346年に成立した帝国。 東ローマ帝国ではアンドロニコス2世パレオロゴスとアンドロニコス3世パレオロゴスによる内紛が起こり、勢力が減退していた。一方、ウロシュ4世はアルバニアとマケドニアを奪取して、セルビア王国の最大領土を形成した。さらにその拡大した勢力を背景として1345年、「セルビア人とローマ人の皇帝」と称してセルビア主教を総主教に格上げし、翌年には皇帝として即位した。そして1349年には『ドゥシャン法典』を発布して、セルビア帝国の最盛期を築き上げた。 しかしウロシュ4世の死後、セルビア帝国は急速に衰退する。ウロシュ4世の息子ステファン・ウロシュ5世は単独で帝位を維持しきれず、のヴカシンとの共同統治となる。その後ウロシュ5世が死去してネマニッチ朝は断絶し、帝国は解体した。 その後、国家はラザル・フレベリャノヴィチのセルビア公国に引き継がれる。1402年までセルビアの一部地域にて、の皇位を主張したウロシュ5世の後継者もいたが、ギリシアの領土が回復することはなかった。 (ja)
rdfs:label
  • セルビア帝国 (ja)
  • セルビア帝国 (ja)
owl:sameAs
prov:wasDerivedFrom
foaf:depiction
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is prop-ja:combatant of
is prop-ja:君主号 of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of