ジョン・マイケル・ライト(英: John Michael Wright、1617年5月 - 1694年7月)は17世紀に活動した肖像画家。バロック風の作品を描いた。出生地ははっきりとしておらず、イングランドとスコットランドの両方の説がある。 エディンバラでスコットランド人画家ジョージ・ジェムソンに絵画を学び、その後長期のローマ滞在中に画家、学者として高い評価を得た。ローマでは芸術家協会アカデミア・ディ・サン・ルカに加入を許され、当時を代表する芸術家たちと交流を持っていた。1655年には、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の末子でスペイン領ネーデルラント総督レオポルト・ヴィルヘルム(en)に仕え、美術品を購入するためにオリバー・クロムウェル支配下のイングランドに渡ったこともある。1656年からイングランドに滞在し、王政復古(en)前後はイングランドの宮廷画家を務めていた。 ローマ・カトリックに改宗していたライトは、王政復古後のステュアート王家の庇護を受けるようになり、イングランド王チャールズ2世とジェームズ2世に仕える芸術家であるとともに、当時の政治情勢の記録者でもあった。イングランドでの最後の数年間は、ローマ教皇インノケンティウス11世への使節団の一人として、ローマへと渡っている。

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  • ジョン・マイケル・ライト(英: John Michael Wright、1617年5月 - 1694年7月)は17世紀に活動した肖像画家。バロック風の作品を描いた。出生地ははっきりとしておらず、イングランドとスコットランドの両方の説がある。 エディンバラでスコットランド人画家ジョージ・ジェムソンに絵画を学び、その後長期のローマ滞在中に画家、学者として高い評価を得た。ローマでは芸術家協会アカデミア・ディ・サン・ルカに加入を許され、当時を代表する芸術家たちと交流を持っていた。1655年には、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の末子でスペイン領ネーデルラント総督レオポルト・ヴィルヘルム(en)に仕え、美術品を購入するためにオリバー・クロムウェル支配下のイングランドに渡ったこともある。1656年からイングランドに滞在し、王政復古(en)前後はイングランドの宮廷画家を務めていた。 ローマ・カトリックに改宗していたライトは、王政復古後のステュアート王家の庇護を受けるようになり、イングランド王チャールズ2世とジェームズ2世に仕える芸術家であるとともに、当時の政治情勢の記録者でもあった。イングランドでの最後の数年間は、ローマ教皇インノケンティウス11世への使節団の一人として、ローマへと渡っている。 現在、ライトはイギリス人画家としては当時最高の画家の一人とみなされており、とくに独自の写実的な肖像画が評価されている。その経歴がもたらしたと思われる国際人的な考え方から、外国人芸術家が好まれていた当時の最上流階級のパトロンにも恵まれた。王侯貴族を描いたライトの作品は、現在多くの主要な美術館に所蔵されている。 (ja)
  • ジョン・マイケル・ライト(英: John Michael Wright、1617年5月 - 1694年7月)は17世紀に活動した肖像画家。バロック風の作品を描いた。出生地ははっきりとしておらず、イングランドとスコットランドの両方の説がある。 エディンバラでスコットランド人画家ジョージ・ジェムソンに絵画を学び、その後長期のローマ滞在中に画家、学者として高い評価を得た。ローマでは芸術家協会アカデミア・ディ・サン・ルカに加入を許され、当時を代表する芸術家たちと交流を持っていた。1655年には、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の末子でスペイン領ネーデルラント総督レオポルト・ヴィルヘルム(en)に仕え、美術品を購入するためにオリバー・クロムウェル支配下のイングランドに渡ったこともある。1656年からイングランドに滞在し、王政復古(en)前後はイングランドの宮廷画家を務めていた。 ローマ・カトリックに改宗していたライトは、王政復古後のステュアート王家の庇護を受けるようになり、イングランド王チャールズ2世とジェームズ2世に仕える芸術家であるとともに、当時の政治情勢の記録者でもあった。イングランドでの最後の数年間は、ローマ教皇インノケンティウス11世への使節団の一人として、ローマへと渡っている。 現在、ライトはイギリス人画家としては当時最高の画家の一人とみなされており、とくに独自の写実的な肖像画が評価されている。その経歴がもたらしたと思われる国際人的な考え方から、外国人芸術家が好まれていた当時の最上流階級のパトロンにも恵まれた。王侯貴族を描いたライトの作品は、現在多くの主要な美術館に所蔵されている。 (ja)
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