ジェイムズ・ケアード号の航海(英: Voyage of the James Caird)は、アーネスト・シャクルトンが率いた帝国南極横断探検隊の中で、1916年に南極のサウスシェトランド諸島にあるエレファント島から、南大西洋のサウスジョージア島まで、約800海里 (1,500 km) を小さなボートで渡ったものである。探検隊は遠征に使ったエンデュアランス号が氷に潰された後で、エレファント島にわたり、その中から6人が救援を求めるために改造した救命ボートで出発した。極圏歴史家達は、それまで行われた中でもこの航海は小さなボートでの最大級の航海になったと評した。 1915年10月にエンデュアランス号がウェッデル海の叢氷によって沈められ、シャクルトンと隊員達は不安定な浮氷の上で漂流した。この集団は1916年4月まで北向きに漂流を続けていたが、このとき宿営していた氷が割れた。彼らは救命ボートでエレファント島に渡り、そこでシャクルトンは救援を得るための最も効果的な方法が、その救命ボートの1つでサウスジョージア島まで渡ることだと判断した。

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  • ジェイムズ・ケアード号の航海(英: Voyage of the James Caird)は、アーネスト・シャクルトンが率いた帝国南極横断探検隊の中で、1916年に南極のサウスシェトランド諸島にあるエレファント島から、南大西洋のサウスジョージア島まで、約800海里 (1,500 km) を小さなボートで渡ったものである。探検隊は遠征に使ったエンデュアランス号が氷に潰された後で、エレファント島にわたり、その中から6人が救援を求めるために改造した救命ボートで出発した。極圏歴史家達は、それまで行われた中でもこの航海は小さなボートでの最大級の航海になったと評した。 1915年10月にエンデュアランス号がウェッデル海の叢氷によって沈められ、シャクルトンと隊員達は不安定な浮氷の上で漂流した。この集団は1916年4月まで北向きに漂流を続けていたが、このとき宿営していた氷が割れた。彼らは救命ボートでエレファント島に渡り、そこでシャクルトンは救援を得るための最も効果的な方法が、その救命ボートの1つでサウスジョージア島まで渡ることだと判断した。 3隻あった救命ボートの中で、ジェイムズ・ケアード号が最強と考えられ、その旅に耐えられそうだと判断した。その船名はダンディのジュート製造者かつ慈善事業家であり、その資金でこの遠征を可能にしていたジェイムズ・キー・ケアード卿から採られた。遠征に出る前に、船大工のハリー・マクニッシュが、南極海の荒い海にも耐えられるよう、そのボートを強化し改良していた。エレファント島を出た後は、転覆しそうになるなど多くの危険を乗り越えて、ボートは16日間の航海後にサウスジョージア島南岸にたどり着いた。シャクルトンと2人の隊員が島内陸の山岳を越えて、北岸の捕鯨基地に到着した。ここでエレファント島に残った隊員の救援隊を組織することができ、一人の生命も失うことなく救援に成功した。第一次世界大戦後、ジェイムズ・ケアード号はサウスジョージア島からイングランドに戻され、現在はシャクルトンの母校であるダリッジ・カレッジで永久展示されている。 (ja)
  • ジェイムズ・ケアード号の航海(英: Voyage of the James Caird)は、アーネスト・シャクルトンが率いた帝国南極横断探検隊の中で、1916年に南極のサウスシェトランド諸島にあるエレファント島から、南大西洋のサウスジョージア島まで、約800海里 (1,500 km) を小さなボートで渡ったものである。探検隊は遠征に使ったエンデュアランス号が氷に潰された後で、エレファント島にわたり、その中から6人が救援を求めるために改造した救命ボートで出発した。極圏歴史家達は、それまで行われた中でもこの航海は小さなボートでの最大級の航海になったと評した。 1915年10月にエンデュアランス号がウェッデル海の叢氷によって沈められ、シャクルトンと隊員達は不安定な浮氷の上で漂流した。この集団は1916年4月まで北向きに漂流を続けていたが、このとき宿営していた氷が割れた。彼らは救命ボートでエレファント島に渡り、そこでシャクルトンは救援を得るための最も効果的な方法が、その救命ボートの1つでサウスジョージア島まで渡ることだと判断した。 3隻あった救命ボートの中で、ジェイムズ・ケアード号が最強と考えられ、その旅に耐えられそうだと判断した。その船名はダンディのジュート製造者かつ慈善事業家であり、その資金でこの遠征を可能にしていたジェイムズ・キー・ケアード卿から採られた。遠征に出る前に、船大工のハリー・マクニッシュが、南極海の荒い海にも耐えられるよう、そのボートを強化し改良していた。エレファント島を出た後は、転覆しそうになるなど多くの危険を乗り越えて、ボートは16日間の航海後にサウスジョージア島南岸にたどり着いた。シャクルトンと2人の隊員が島内陸の山岳を越えて、北岸の捕鯨基地に到着した。ここでエレファント島に残った隊員の救援隊を組織することができ、一人の生命も失うことなく救援に成功した。第一次世界大戦後、ジェイムズ・ケアード号はサウスジョージア島からイングランドに戻され、現在はシャクルトンの母校であるダリッジ・カレッジで永久展示されている。 (ja)
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  • ジェイムズ・ケアード号の航海(英: Voyage of the James Caird)は、アーネスト・シャクルトンが率いた帝国南極横断探検隊の中で、1916年に南極のサウスシェトランド諸島にあるエレファント島から、南大西洋のサウスジョージア島まで、約800海里 (1,500 km) を小さなボートで渡ったものである。探検隊は遠征に使ったエンデュアランス号が氷に潰された後で、エレファント島にわたり、その中から6人が救援を求めるために改造した救命ボートで出発した。極圏歴史家達は、それまで行われた中でもこの航海は小さなボートでの最大級の航海になったと評した。 1915年10月にエンデュアランス号がウェッデル海の叢氷によって沈められ、シャクルトンと隊員達は不安定な浮氷の上で漂流した。この集団は1916年4月まで北向きに漂流を続けていたが、このとき宿営していた氷が割れた。彼らは救命ボートでエレファント島に渡り、そこでシャクルトンは救援を得るための最も効果的な方法が、その救命ボートの1つでサウスジョージア島まで渡ることだと判断した。 (ja)
  • ジェイムズ・ケアード号の航海(英: Voyage of the James Caird)は、アーネスト・シャクルトンが率いた帝国南極横断探検隊の中で、1916年に南極のサウスシェトランド諸島にあるエレファント島から、南大西洋のサウスジョージア島まで、約800海里 (1,500 km) を小さなボートで渡ったものである。探検隊は遠征に使ったエンデュアランス号が氷に潰された後で、エレファント島にわたり、その中から6人が救援を求めるために改造した救命ボートで出発した。極圏歴史家達は、それまで行われた中でもこの航海は小さなボートでの最大級の航海になったと評した。 1915年10月にエンデュアランス号がウェッデル海の叢氷によって沈められ、シャクルトンと隊員達は不安定な浮氷の上で漂流した。この集団は1916年4月まで北向きに漂流を続けていたが、このとき宿営していた氷が割れた。彼らは救命ボートでエレファント島に渡り、そこでシャクルトンは救援を得るための最も効果的な方法が、その救命ボートの1つでサウスジョージア島まで渡ることだと判断した。 (ja)
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  • ジェイムズ・ケアード号の航海 (ja)
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