シャジャル・アッ=ドゥッル(シャジャルッドゥッル、アラビア語:شجر الدر 転写:Shajar al-Durr、 ? - 1257年4月28日)は、アイユーブ朝のスルタン、サーリフの夫人で、マムルーク朝の初代君主(在位:1250年)。イスラム世界の歴史において稀少な女性の君主。アイユーブ朝を引き継いでエジプトを支配したマムルーク朝は、初代スルタンにシャジャル・アッ=ドゥッルを継承したイッズッディーン・アイバクを擬することも多いが、事実上は、わずか3ヶ月であっても統治を行ったシャジャル・アッ=ドゥッルが開いた王朝であると言える。 幼少時に親族を失い、女官見習奴隷としてカリフの後宮で育ち、アラビア語を身につけたとされる。民族的にはテュルク系あるいはアルメニア系の出身と考えられているが、テュルク系主体のマムルークによって支持されたことから、テュルク系と見たほうが良いようである。その名はアラビア語で「真珠の木」を意味し、これはカリフから与えられた妻妾としての名前であるとされ、本名は不詳。伝記作家のサファディー(1363年没)は「シャジャル・アッ=ドゥッルは類いまれな美しさで、見識があり、抜け目がなく、知性的であった」と記している。美しい容貌にくわえて、マムルーク軍団バフリーヤを統率する政治的手腕を備えていたとみてよいであろう。

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  • シャジャル・アッ=ドゥッル(シャジャルッドゥッル、アラビア語:شجر الدر 転写:Shajar al-Durr、 ? - 1257年4月28日)は、アイユーブ朝のスルタン、サーリフの夫人で、マムルーク朝の初代君主(在位:1250年)。イスラム世界の歴史において稀少な女性の君主。アイユーブ朝を引き継いでエジプトを支配したマムルーク朝は、初代スルタンにシャジャル・アッ=ドゥッルを継承したイッズッディーン・アイバクを擬することも多いが、事実上は、わずか3ヶ月であっても統治を行ったシャジャル・アッ=ドゥッルが開いた王朝であると言える。 幼少時に親族を失い、女官見習奴隷としてカリフの後宮で育ち、アラビア語を身につけたとされる。民族的にはテュルク系あるいはアルメニア系の出身と考えられているが、テュルク系主体のマムルークによって支持されたことから、テュルク系と見たほうが良いようである。その名はアラビア語で「真珠の木」を意味し、これはカリフから与えられた妻妾としての名前であるとされ、本名は不詳。伝記作家のサファディー(1363年没)は「シャジャル・アッ=ドゥッルは類いまれな美しさで、見識があり、抜け目がなく、知性的であった」と記している。美しい容貌にくわえて、マムルーク軍団バフリーヤを統率する政治的手腕を備えていたとみてよいであろう。 スルタンの地位を夫であるアイバクに譲った後、アイバクが軍事同盟を結ぶためにモースルのアミールの親族から若い妻を娶ろうとしたため、嫉妬から夫を殺害した。自らは夫の配下のマムルークに捕らえられ、夫アイバクの元妻によって殺された。 (ja)
  • シャジャル・アッ=ドゥッル(シャジャルッドゥッル、アラビア語:شجر الدر 転写:Shajar al-Durr、 ? - 1257年4月28日)は、アイユーブ朝のスルタン、サーリフの夫人で、マムルーク朝の初代君主(在位:1250年)。イスラム世界の歴史において稀少な女性の君主。アイユーブ朝を引き継いでエジプトを支配したマムルーク朝は、初代スルタンにシャジャル・アッ=ドゥッルを継承したイッズッディーン・アイバクを擬することも多いが、事実上は、わずか3ヶ月であっても統治を行ったシャジャル・アッ=ドゥッルが開いた王朝であると言える。 幼少時に親族を失い、女官見習奴隷としてカリフの後宮で育ち、アラビア語を身につけたとされる。民族的にはテュルク系あるいはアルメニア系の出身と考えられているが、テュルク系主体のマムルークによって支持されたことから、テュルク系と見たほうが良いようである。その名はアラビア語で「真珠の木」を意味し、これはカリフから与えられた妻妾としての名前であるとされ、本名は不詳。伝記作家のサファディー(1363年没)は「シャジャル・アッ=ドゥッルは類いまれな美しさで、見識があり、抜け目がなく、知性的であった」と記している。美しい容貌にくわえて、マムルーク軍団バフリーヤを統率する政治的手腕を備えていたとみてよいであろう。 スルタンの地位を夫であるアイバクに譲った後、アイバクが軍事同盟を結ぶためにモースルのアミールの親族から若い妻を娶ろうとしたため、嫉妬から夫を殺害した。自らは夫の配下のマムルークに捕らえられ、夫アイバクの元妻によって殺された。 (ja)
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  • シャジャル・アッ=ドゥッル(シャジャルッドゥッル、アラビア語:شجر الدر 転写:Shajar al-Durr、 ? - 1257年4月28日)は、アイユーブ朝のスルタン、サーリフの夫人で、マムルーク朝の初代君主(在位:1250年)。イスラム世界の歴史において稀少な女性の君主。アイユーブ朝を引き継いでエジプトを支配したマムルーク朝は、初代スルタンにシャジャル・アッ=ドゥッルを継承したイッズッディーン・アイバクを擬することも多いが、事実上は、わずか3ヶ月であっても統治を行ったシャジャル・アッ=ドゥッルが開いた王朝であると言える。 幼少時に親族を失い、女官見習奴隷としてカリフの後宮で育ち、アラビア語を身につけたとされる。民族的にはテュルク系あるいはアルメニア系の出身と考えられているが、テュルク系主体のマムルークによって支持されたことから、テュルク系と見たほうが良いようである。その名はアラビア語で「真珠の木」を意味し、これはカリフから与えられた妻妾としての名前であるとされ、本名は不詳。伝記作家のサファディー(1363年没)は「シャジャル・アッ=ドゥッルは類いまれな美しさで、見識があり、抜け目がなく、知性的であった」と記している。美しい容貌にくわえて、マムルーク軍団バフリーヤを統率する政治的手腕を備えていたとみてよいであろう。 (ja)
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  • シャジャル・アッ=ドゥッル (ja)
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