カラ・ホジョの戦い(カラ・ホジョのたたかい、英語: Battle of Qara Qočo、中国語: 火州之戦)とは、1275年(もしくは1285年)に「カイドゥ・ウルス」に属するドゥア率いる軍団が天山ウイグル王国君主コチカル・テギンの拠るカラ・ホジョ(漢訳は高昌/火州)を包囲したことで起こった戦闘。6カ月にわたる包囲戦の末、コチカル・テギンは自らの娘を差し出すことでドゥアに軍を引かせたが、この戦いはこれ以後ウイグリスタンがドゥアらチャガタイ家によって領土が蚕食されていく象徴となる事件であった。 この戦闘については蒙漢合壁碑(ウイグル文字文と漢文の両方が記される碑文)の「高昌王世勲碑」と「西寧王忻都公碑」に記録されており、漢文とウイグル文字モンゴル文の両方で語られていることで知られている。