782年のアッバース朝の小アジア侵攻(アッバースちょうのしょうアジアしんこう)は、アッバース朝がビザンツ帝国に対して行った最大規模の軍事侵攻の一つである。この侵攻はアッバース朝に対するビザンツ帝国による一連の軍事的成功に対抗し、アッバース朝の軍事力を誇示することを目的として行われた。 アッバース朝軍は後にアッバース朝のカリフとなるハールーン・アッ=ラシードが指揮を執り、ダノレスとニカイア近郊でビザンツ軍を破るとコンスタンティノープルの対岸に位置するクリュソポリスまで進軍した。しかし、ハールーンにはコンスタンティノープルを攻撃する意志はなく、攻撃用の船もなかったために軍を引き返した。 これに対してビザンツ軍はアッバース朝軍が後方を守るためにフリュギアに残していた部隊を破り、ハールーンが率いる部隊をサンガリオス川の渓谷で両側から行手を塞いだ。しかし、前方の行手を阻んでいたアルメニア出身のビザンツ軍の将軍であるの離反によってハールーンは再び有利な立場となり、停戦を申し入れたハールーンに対してビザンツ帝国の摂政のエイレーネーが派遣したを初めとする高官たちの使節団を拘束した。このため、エイレーネーは莫大な貢納金の支払いと引き換えに3年間の講和条約の締結を認めざるを得なかった。

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  • 782年のアッバース朝の小アジア侵攻(アッバースちょうのしょうアジアしんこう)は、アッバース朝がビザンツ帝国に対して行った最大規模の軍事侵攻の一つである。この侵攻はアッバース朝に対するビザンツ帝国による一連の軍事的成功に対抗し、アッバース朝の軍事力を誇示することを目的として行われた。 アッバース朝軍は後にアッバース朝のカリフとなるハールーン・アッ=ラシードが指揮を執り、ダノレスとニカイア近郊でビザンツ軍を破るとコンスタンティノープルの対岸に位置するクリュソポリスまで進軍した。しかし、ハールーンにはコンスタンティノープルを攻撃する意志はなく、攻撃用の船もなかったために軍を引き返した。 これに対してビザンツ軍はアッバース朝軍が後方を守るためにフリュギアに残していた部隊を破り、ハールーンが率いる部隊をサンガリオス川の渓谷で両側から行手を塞いだ。しかし、前方の行手を阻んでいたアルメニア出身のビザンツ軍の将軍であるの離反によってハールーンは再び有利な立場となり、停戦を申し入れたハールーンに対してビザンツ帝国の摂政のエイレーネーが派遣したを初めとする高官たちの使節団を拘束した。このため、エイレーネーは莫大な貢納金の支払いと引き換えに3年間の講和条約の締結を認めざるを得なかった。 エイレーネーはその後バルカン半島の支配力の強化に注力したが、786年には両国の間で戦争行為が再開され、798年には戦争の主導権を握ったアラブ側の圧力によって782年と同様の条件で再び講和条約が締結された。 (ja)
  • 782年のアッバース朝の小アジア侵攻(アッバースちょうのしょうアジアしんこう)は、アッバース朝がビザンツ帝国に対して行った最大規模の軍事侵攻の一つである。この侵攻はアッバース朝に対するビザンツ帝国による一連の軍事的成功に対抗し、アッバース朝の軍事力を誇示することを目的として行われた。 アッバース朝軍は後にアッバース朝のカリフとなるハールーン・アッ=ラシードが指揮を執り、ダノレスとニカイア近郊でビザンツ軍を破るとコンスタンティノープルの対岸に位置するクリュソポリスまで進軍した。しかし、ハールーンにはコンスタンティノープルを攻撃する意志はなく、攻撃用の船もなかったために軍を引き返した。 これに対してビザンツ軍はアッバース朝軍が後方を守るためにフリュギアに残していた部隊を破り、ハールーンが率いる部隊をサンガリオス川の渓谷で両側から行手を塞いだ。しかし、前方の行手を阻んでいたアルメニア出身のビザンツ軍の将軍であるの離反によってハールーンは再び有利な立場となり、停戦を申し入れたハールーンに対してビザンツ帝国の摂政のエイレーネーが派遣したを初めとする高官たちの使節団を拘束した。このため、エイレーネーは莫大な貢納金の支払いと引き換えに3年間の講和条約の締結を認めざるを得なかった。 エイレーネーはその後バルカン半島の支配力の強化に注力したが、786年には両国の間で戦争行為が再開され、798年には戦争の主導権を握ったアラブ側の圧力によって782年と同様の条件で再び講和条約が締結された。 (ja)
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  • あなたはギリシア人たちが住まうコンスタンティノープルの周りを巡り、その上に槍を置き、その城壁を屈辱で覆った。戦争の大釜が煮え滾っていた一方で、あなたは都市を手にすることを強くは望まず、都市の王たちの貢ぎ物を受け取ったことに満足した。 ---- (ja)
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  • 782年のアッバース朝の小アジア侵攻(アッバースちょうのしょうアジアしんこう)は、アッバース朝がビザンツ帝国に対して行った最大規模の軍事侵攻の一つである。この侵攻はアッバース朝に対するビザンツ帝国による一連の軍事的成功に対抗し、アッバース朝の軍事力を誇示することを目的として行われた。 アッバース朝軍は後にアッバース朝のカリフとなるハールーン・アッ=ラシードが指揮を執り、ダノレスとニカイア近郊でビザンツ軍を破るとコンスタンティノープルの対岸に位置するクリュソポリスまで進軍した。しかし、ハールーンにはコンスタンティノープルを攻撃する意志はなく、攻撃用の船もなかったために軍を引き返した。 これに対してビザンツ軍はアッバース朝軍が後方を守るためにフリュギアに残していた部隊を破り、ハールーンが率いる部隊をサンガリオス川の渓谷で両側から行手を塞いだ。しかし、前方の行手を阻んでいたアルメニア出身のビザンツ軍の将軍であるの離反によってハールーンは再び有利な立場となり、停戦を申し入れたハールーンに対してビザンツ帝国の摂政のエイレーネーが派遣したを初めとする高官たちの使節団を拘束した。このため、エイレーネーは莫大な貢納金の支払いと引き換えに3年間の講和条約の締結を認めざるを得なかった。 (ja)
  • 782年のアッバース朝の小アジア侵攻(アッバースちょうのしょうアジアしんこう)は、アッバース朝がビザンツ帝国に対して行った最大規模の軍事侵攻の一つである。この侵攻はアッバース朝に対するビザンツ帝国による一連の軍事的成功に対抗し、アッバース朝の軍事力を誇示することを目的として行われた。 アッバース朝軍は後にアッバース朝のカリフとなるハールーン・アッ=ラシードが指揮を執り、ダノレスとニカイア近郊でビザンツ軍を破るとコンスタンティノープルの対岸に位置するクリュソポリスまで進軍した。しかし、ハールーンにはコンスタンティノープルを攻撃する意志はなく、攻撃用の船もなかったために軍を引き返した。 これに対してビザンツ軍はアッバース朝軍が後方を守るためにフリュギアに残していた部隊を破り、ハールーンが率いる部隊をサンガリオス川の渓谷で両側から行手を塞いだ。しかし、前方の行手を阻んでいたアルメニア出身のビザンツ軍の将軍であるの離反によってハールーンは再び有利な立場となり、停戦を申し入れたハールーンに対してビザンツ帝国の摂政のエイレーネーが派遣したを初めとする高官たちの使節団を拘束した。このため、エイレーネーは莫大な貢納金の支払いと引き換えに3年間の講和条約の締結を認めざるを得なかった。 (ja)
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  • アッバース朝の小アジア侵攻 (782年) (ja)
  • アッバース朝の小アジア侵攻 (782年) (ja)
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