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  • 西ローマ帝国Imperium Romanum, Pars Occidentalis西ローマの位置395年頃の領域西ローマ帝国(にしローマていこく)は一般的に、テオドシウス1世死後のローマ帝国の西半分を領有した国家を指す。なお、広義には286年のディオクレティアヌス帝によるローマ帝国のテトラルキア導入後のローマ帝国の西半分や、3世紀から5世紀までの間、テトラルキア以降の帝国の西半分に割拠した勢力を指す用例もある。なお、「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に後世の人間による呼称で、両国とも当時の政府や住民は自らの国を単にローマ帝国と自称しており、複数の皇帝が帝国領土を分割統治するのも、単に広大な領土を有効に統治するための便宜にすぎないと考えていた。この観点からいうならば、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの国家は存在せず、それらは、ひとつのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったということになる。西ローマ帝国が滅亡した後、東ローマ帝国は(滅亡の1453年にいたるまで)自らの国家をローマ帝国と自称したのも、こうした認識によるものである(東ローマ帝国の項を参照)。395年にテオドシウス1世が死去すると、その2人の息子アルカディウスとホノリウスをともに皇帝として、ローマ帝国は東西に分割された。滅亡年は一般に476年9月4日(ロムルス・アウグストゥルスがゲルマン人傭兵オドアケルの圧迫を受けて退位)というのが一般的な説であるが、480年(ユリウス・ネポス殺害)とする説もある。通常、この西ローマ帝国の滅亡をもって古代の終わり・中世の始まりとする。なお、東ローマ帝国は、西ローマ帝国滅亡から1000年近く存続したが、1453年にオスマン帝国によって滅ぼされた。詳細は「東ローマ帝国」の項目を参照のこと。西ローマ帝国の最も重要な遺産であるカトリック教会に感化されて、もとの西ローマ帝国の版図の中から新生の好戦的な蛮族の王国がいくつも登場し、ついにはカトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用した。徐々にこれら蛮族は、自らをローマの遺産の「真の相続者」とみなすようになっていった。
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prop-ja:先代
  • ローマ帝国
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  • no
prop-ja:公式国名
  • '''
prop-ja:公用語
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  • Labarum.svg
prop-ja:変遷
  • ロムルス・アウグストゥス退位(事実上滅亡)
  • テオドシウス朝断絶
  • ユリウス・ネポス殺害(完全滅亡)
  • ローマ帝国の東西分裂
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prop-ja:日本語国名
  • 西ローマ帝国
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  • フランク王国
  • ブルグント王国
  • ヴァンダル王国
  • 東ゴート王国
  • 西ゴート王国
prop-ja:略名
  • 西ローマ
prop-ja:首都
  • ((現ミラノ、286年-402年))
  • ((現ラベンナ、402年-476年))
  • メディオラーヌム
  • ラウェンナ
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  • 西ローマ帝国Imperium Romanum, Pars Occidentalis西ローマの位置395年頃の領域西ローマ帝国(にしローマていこく)は一般的に、テオドシウス1世死後のローマ帝国の西半分を領有した国家を指す。なお、広義には286年のディオクレティアヌス帝によるローマ帝国のテトラルキア導入後のローマ帝国の西半分や、3世紀から5世紀までの間、テトラルキア以降の帝国の西半分に割拠した勢力を指す用例もある。なお、「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に後世の人間による呼称で、両国とも当時の政府や住民は自らの国を単にローマ帝国と自称しており、複数の皇帝が帝国領土を分割統治するのも、単に広大な領土を有効に統治するための便宜にすぎないと考えていた。この観点からいうならば、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの国家は存在せず、それらは、ひとつのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったということになる。西ローマ帝国が滅亡した後、東ローマ帝国は(滅亡の1453年にいたるまで)自らの国家をローマ帝国と自称したのも、こうした認識によるものである(東ローマ帝国の項を参照)。395年にテオドシウス1世が死去すると、その2人の息子アルカディウスとホノリウスをともに皇帝として、ローマ帝国は東西に分割された。滅亡年は一般に476年9月4日(ロムルス・アウグストゥルスがゲルマン人傭兵オドアケルの圧迫を受けて退位)というのが一般的な説であるが、480年(ユリウス・ネポス殺害)とする説もある。通常、この西ローマ帝国の滅亡をもって古代の終わり・中世の始まりとする。なお、東ローマ帝国は、西ローマ帝国滅亡から1000年近く存続したが、1453年にオスマン帝国によって滅ぼされた。詳細は「東ローマ帝国」の項目を参照のこと。西ローマ帝国の最も重要な遺産であるカトリック教会に感化されて、もとの西ローマ帝国の版図の中から新生の好戦的な蛮族の王国がいくつも登場し、ついにはカトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用した。徐々にこれら蛮族は、自らをローマの遺産の「真の相続者」とみなすようになっていった。
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  • 西ローマ帝国
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