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  • 藤生 金六(ふじう きんろく、1859年8月31日(安政6年8月4日) - 1907年(明治40年)7月13日)は、明治期の日本の教育者・牧師。横浜バンドのメンバーである。上野国山田郡大間々(現在の群馬県みどり市)生まれ。1874年に神奈川県横浜市にあった洋学校「修文館」で学び、1875年より、高島学校、東京語学校で学ぶ。1874年秋よりブラウン塾で学びはじめ、サミュエル・ロビンス・ブラウン、ヘンリー・ルーミス、エドワード・ローゼイ・ミラーより神学と哲学を学ぶ。1877年7月にブラウン塾を卒業して、東京一致神学校で学ぶ。1879年5月から農商業に従事する。1883年に上野新報商議委員と主任記者になる。1884年より横浜ヘラルド新聞の記者になる。1885年より仙台神学校の教授になり、1888年より荘内私立中学校(現在の山形県立鶴岡南高等学校)の初代校長を務める。1890年より仙台の宮城女学校(宮城学院)の幹事になる。1894年8月、日本基督教会宮城中会による会津伝道のために会津若松に赴任し、北小路町に講義所を開設(のちの若松栄町教会)。伝道の傍ら開いていた英語塾には野口英世(当時の名は野口清作)も通っていた。1895年4月、野口英世は藤生金六から受洗している。1897年、病気のために退任した。1894年2月より東京の第二中会の下谷教会(現、日本基督教団豊島岡教会)牧師に迎えられる。また、新栄教会での日本基督教会大会議長を務め、田村直臣の『日本の花嫁』事件の弾劾動議を採択した。半年後、1894年8月に会津若松に赴任し、若松栄町教会の創設にあたる。1897年に会津若松教会を辞任し東京に戻る。1907年東京市牛込区東五軒町で急逝した。
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  • 藤生 金六(ふじう きんろく、1859年8月31日(安政6年8月4日) - 1907年(明治40年)7月13日)は、明治期の日本の教育者・牧師。横浜バンドのメンバーである。上野国山田郡大間々(現在の群馬県みどり市)生まれ。1874年に神奈川県横浜市にあった洋学校「修文館」で学び、1875年より、高島学校、東京語学校で学ぶ。1874年秋よりブラウン塾で学びはじめ、サミュエル・ロビンス・ブラウン、ヘンリー・ルーミス、エドワード・ローゼイ・ミラーより神学と哲学を学ぶ。1877年7月にブラウン塾を卒業して、東京一致神学校で学ぶ。1879年5月から農商業に従事する。1883年に上野新報商議委員と主任記者になる。1884年より横浜ヘラルド新聞の記者になる。1885年より仙台神学校の教授になり、1888年より荘内私立中学校(現在の山形県立鶴岡南高等学校)の初代校長を務める。1890年より仙台の宮城女学校(宮城学院)の幹事になる。1894年8月、日本基督教会宮城中会による会津伝道のために会津若松に赴任し、北小路町に講義所を開設(のちの若松栄町教会)。伝道の傍ら開いていた英語塾には野口英世(当時の名は野口清作)も通っていた。1895年4月、野口英世は藤生金六から受洗している。1897年、病気のために退任した。1894年2月より東京の第二中会の下谷教会(現、日本基督教団豊島岡教会)牧師に迎えられる。また、新栄教会での日本基督教会大会議長を務め、田村直臣の『日本の花嫁』事件の弾劾動議を採択した。半年後、1894年8月に会津若松に赴任し、若松栄町教会の創設にあたる。1897年に会津若松教会を辞任し東京に戻る。1907年東京市牛込区東五軒町で急逝した。
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