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  • 蒋 経国(しょう けいこく、蔣經國、1910年4月27日 - 1988年1月13日)は、中華民国の政治家である。中華民国第6任・第7任(第6期・第7期)総統を務め、中国国民党中央委員会主席、中華民国行政院長、国防部長等を歴任した。蒋経国は1910年4月27日(旧暦3月18日))、浙江省奉化県渓口鎮に、蒋介石、毛福梅夫婦の長男として生まれた。父蒋介石は、蒋経国が生まれた時には日本にいて、軍事について学んでいた。やがて蒋介石は辛亥革命以降の中国革命において、中心人物として活躍するようになる。革命に奔走するようになった父、蒋介石は家に戻ることが少なくなり、もともと母が持ってきた縁談に従って結婚した妻、毛福梅との関係は疎遠になっていく。蒋経国はもちろん母のことを慕い、家にあまり寄り付かなくなった父蒋介石も、蒋経国への教育は大変熱心であり、伝統的な中国の価値観に沿った教育を息子に施していく。そして1921年、蒋介石は妻、毛福梅と離婚した後、翌年には蒋経国を上海に連れ出す。これは離婚した毛福梅のもとに息子を置いておきたくなかったという事情とともに、閉鎖的な田舎にいては息子の見聞が広がらないと考えたことによる。しかし上海で蒋経国は革命思想に出会い、1925年、五・三〇事件で中学生のデモを4回指揮したことが原因で中学校を退学させられる。そして中学退学後、蒋介石の友人に預けられる形で向かった北京でも帝国主義に反対するデモに参加し、当局から拘束される。結局蒋経国は1925年10月、ソ連に留学することになった。留学したソ連で蒋経国は中国革命を担う人材を養成することを目的に創設されたモスクワ中山大学で学んだ。トロツキーに心酔した蒋経国はよき共産主義者たらんとして勉学に励むが、モスクワ中山大学在学中、父、蒋介石は上海クーデターを敢行し、共産党の弾圧に乗り出す。上海クーデターのニュースを聞きつけた蒋経国は、父、蒋介石に対する絶縁状を叩きつけた。その後、蒋経国は中国の最高実力者にのし上がった蒋介石の長男として、スターリンの人質同様の境遇となりソ連で苦難の生活をせねばならなくなる。蒋経国を苦しめたのはソ連当局ばかりではなく、中国共産党モスクワ駐在支部、特に責任者の王明が蒋経国の迫害に一役買った。蒋経国はモスクワ近郊の貧しい農村、アルタイ金鉱、そしてスヴェルドロフスクのウラル重機械工場で働かされた。そのような中で蒋経国はソ連社会の基層に触れ、後の政治家生活で大きく役立つことになる大衆政治家としての素養を身につけた。またソ連で学んだことにより、政治警察、軍の政治工作系統についての深い知識を身につける。ウラル重機械工場で、蒋経国は生涯の伴侶、ファイナと出会い、結婚する。結婚後も蒋経国はソ連当局、中国共産党モスクワ駐在支部の圧迫を受け続けるが、1936年10月の西安事件を期に境遇が一変し、翌1937年、蒋経国は12年ぶりに帰国する。帰国後の蒋経国は郷里渓口鎮での禊の時期を経て、江西省で中国政治にデビューする。1939年には江西省辺境の贛南に赴任し、軍閥が我が物顔に跋扈し、行政の指示は全く行われず、大量のアヘン吸引者、マカオに次ぐ規模の賭博場が存在した贛南で改革の辣腕を振るった。蒋経国の贛南統治は大きな成果を挙げ、中国政治デビューは順調であった。また贛南時代から蒋経国は自派の形成を開始した。蒋介石は1944年に蒋経国を臨時首都の重慶に呼び寄せ、三民主義青年団中央幹部学校教育長に任命する。蒋経国の活躍の場が地方から中央に上がったことになるが、この頃から蒋経国の政治経歴には挫折が続き、壁にぶつかることになる。結局皮肉なことに父、蒋介石が率いる国民党、国民政府の国共内戦敗北、台湾撤退が蒋経国にとっての大きな転機となった。国共内戦は国民政府軍の敗退が続き、結局台湾への撤退を余儀なくされる。この時期、蒋経国は父、蒋介石に常に近侍し、補佐をするようになった。生母との離婚、ソ連時代にはいったん絶縁状を叩きつけたこともあった父、蒋介石との距離は国共内戦時以前は必ずしも近くなかったが、危機は父子の関係を深め、蒋経国は蒋介石側近筆頭の地位を確保する。台湾に撤退後、父、蒋介石は息子の蒋経国に、特務の元締めと軍の政治工作部門の掌握といういわば体制のダーティな部分を任せた。ソ連で軍の政治工作部門について学び、蒋介石に最も信頼されている蒋経国にとって適役ではあったが、政治家として大成するには特務の元締めという負の遺産を清算せねばならないという課題を背負うことになった。蒋経国は特務の元締めとして台湾に根を張りつつあった共産党組織の壊滅に成功するが、実際の共産党関係者を遥かに上回る冤罪被害者を生み出した。また軍の政治工作部門を掌握した蒋経国は軍の人事権を確保し、特務、軍の政治工作部門を活用して政敵を追放ないし抑圧することにも成功し、主として政治の裏側で強大な権力を握る。台湾に撤退した国民党、国民政府は、あくまで自らが中国の正統政権であって中国共産党は反乱者であると見なしており、台湾はあくまで借住まいであり、中国大陸に戻ることを前提としていた。そのため、台湾に蒋介石とともにやってきた外省人が少数派であるのにも拘らず、多数派の本省人の上に立って支配する統治形態が確立された。この体制はアメリカからの支持、援助を受け1960年代までは大きな波乱もなく安定していた。しかし父、蒋介石の衰えが目立つようになった1960年代末以降、中国大陸復帰の非現実性が明らかになり、またアメリカなど諸外国の支持も減退し、国民党、国民政府は大きな正統性の危機に直面する。蒋経国はこのような危機が進行するする中、不足していた政治の表舞台でのキャリアを積みあげ、衰えた父、蒋介石に代わり事実上の国の最高指導者となる。1972年に行政院長となった蒋経国は、対外的な正統性の危機と、それに伴う移民、資本移動といった形での海外逃避に傾きがちとなった状況を克服するため、経済建設のための大規模な投資、十大建設を断行する。十大建設は成功を収め、危機の中での経済建設の成功は台湾社会に団結と達成感をもたらし、更に政治的孤立とは対照的に、台湾は国際経済において確固たる地位を占めることに成功する。また蒋経国はいわばよそ者の政権であった中華民国を、徐々に台湾化させる方向へとシフトする。本省人の俊英の抜擢、度重なる地方視察が蒋経国が取った中華民国台湾化の手法であった。本省人の俊英の抜擢で出世頭となったのが、後に蒋経国の後継者の地位に座る李登輝であった。1975年4月に父、蒋介石は死去し、蒋経国は国民党主席となり、1978年には中華民国第六期総統に就任する。総統就任前後から、蒋経国は経済成長などで自信を付けつつあった民衆運動に悩まされるようになった。1979年に発生した美麗島事件は弾圧するが、反体制派はすぐに復活して活動を活発化させていった。またこの頃からアメリカからの人権問題についての介入、そして鄧小平が実権を握り、文化大革命から決別して近代化路線を進み始めた中華人民共和国からの硬軟取り混ぜた攻勢に苦慮するようになる。結局、最晩年になって蒋経国は自らが依拠してきた権威主義的体制の限界を悟り、政党結成の容認、長年台湾を抑圧してきた戒厳令を解除するなど民主化、自由化への大きなな一歩を踏み出し、また権力の世襲を明確に否定した。そして対中国大陸関係では、中国大陸との間接貿易の許可、そして大陸親族訪問解禁と、閉じられた関係から開かれた関係へと移行する重要決断を相次いで下す。1980年代、重い糖尿病に冒されていた蒋経国にとってこれらの決断はまさに命を削るものであり、1988年1月13日、77歳で蒋経国は没する。
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  • しょう けいこく
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  • 浙江省寧波府奉化県
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  • チャン チングォ
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