Data Table
PropertyValue
dbpedia-owl:abstract
  • 興宣大院君((こうせんだいいんくん、흥선대원군、フンソンデウォングン)・大院王(だいいんおう、デウォンワン)、1820年12月21日(時憲暦嘉慶25年十一月十六日) - 1898年(光武2年)2月22日(時憲暦二月初二日))は李氏朝鮮末期の王族。政治家。字は「時伯」、号は「石坡」、「海東居士」、本名は李昰応(り・かおう、이하응、イ・ハウン)。南延君の四男。母は郡夫人驪興閔氏。高宗の実父。1864年1月から1873年11月まで、高宗の実父として朝鮮の国政を司り、外戚の専横排除に関連した古い体制打破を目的とした、具体的には有能な人材の登用、官制改革の実施、小作人制度の撤廃による農地の平等分与などを目指した。一方、1866年にフランス人神父9名やカトリック信者約8,000名を捕らえて処刑(丙寅教獄)するなど、キリスト教を徹底して弾圧、これを機に同年江華島へ侵攻したフランス艦隊を撃退している(丙寅洋擾)。更に、通商を求めて大同江を遡上してきたアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号を焼き払い(ジェネラル・シャーマン号事件)、鎖国をあくまで堅持しようとした。また外戚の専横排除を目的に閔妃を高宗の王妃にするが、かえって国政から追放された。乙未事変により閔妃が暗殺された後も政治の舞台に復帰することなく1898年、79歳で死去した。また「大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号であるが、後述のように李朝時代末期において多大な影響をもたらしたため、現在、単に「大院君」と言えば、通常は興宣大院君を指す。敬称は、「閣下」と「大院位大監」(대원위대감)である。
dbpedia-owl:thumbnail
dbpedia-owl:wikiPageExternalLink
dbpedia-owl:wikiPageID
  • 2359885 (xsd:integer)
dbpedia-owl:wikiPageLength
  • 21673 (xsd:integer)
dbpedia-owl:wikiPageOutDegree
  • 286 (xsd:integer)
dbpedia-owl:wikiPageRevisionID
  • 58950556 (xsd:integer)
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
prop-ja:代数
prop-ja:何世
prop-ja:先祖
prop-ja:
  • 漢字:石坡
  • 発音:ソクパ
  • 諺文:석파
prop-ja:
  • 興宣大院君
prop-ja:埋葬地
  • 京畿道坡州郡大徳里
  • 京畿道高陽郡孔徳里
prop-ja:
prop-ja:子女
prop-ja:
  • 漢字:時伯
  • 発音:シベク
  • 諺文:시백
prop-ja:官職
  • 摂政
prop-ja:
  • 驪興郡夫人閔氏
prop-ja:没年
  • --02-22
prop-ja:爵位
prop-ja:
prop-ja:璿源
prop-ja:生年
  • --12-21
prop-ja:画像
  • 200 (xsd:integer)
prop-ja:称号
  • 興宣大院君
prop-ja:称号発音
  • フンソンデウォングン
prop-ja:称号諺文
  • 흥선대원군
prop-ja:続柄
prop-ja:説明
  • 団領姿の興宣大院君
prop-ja:諡号
  • 漢字:献懿
  • 発音:ホンウィ
  • 諺文:헌의
prop-ja:
  • 李昰応
prop-ja:諱発音
  • イ・ハウン
prop-ja:諱諺文
  • 이하응
prop-ja:配偶者
prop-ja:雅号
  • 漢字:海東居士
  • 発音:ヘドゴサ
  • 諺文:해동거사
dcterms:subject
rdfs:comment
  • 興宣大院君((こうせんだいいんくん、흥선대원군、フンソンデウォングン)・大院王(だいいんおう、デウォンワン)、1820年12月21日(時憲暦嘉慶25年十一月十六日) - 1898年(光武2年)2月22日(時憲暦二月初二日))は李氏朝鮮末期の王族。政治家。字は「時伯」、号は「石坡」、「海東居士」、本名は李昰応(り・かおう、이하응、イ・ハウン)。南延君の四男。母は郡夫人驪興閔氏。高宗の実父。1864年1月から1873年11月まで、高宗の実父として朝鮮の国政を司り、外戚の専横排除に関連した古い体制打破を目的とした、具体的には有能な人材の登用、官制改革の実施、小作人制度の撤廃による農地の平等分与などを目指した。一方、1866年にフランス人神父9名やカトリック信者約8,000名を捕らえて処刑(丙寅教獄)するなど、キリスト教を徹底して弾圧、これを機に同年江華島へ侵攻したフランス艦隊を撃退している(丙寅洋擾)。更に、通商を求めて大同江を遡上してきたアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号を焼き払い(ジェネラル・シャーマン号事件)、鎖国をあくまで堅持しようとした。また外戚の専横排除を目的に閔妃を高宗の王妃にするが、かえって国政から追放された。乙未事変により閔妃が暗殺された後も政治の舞台に復帰することなく1898年、79歳で死去した。また「大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号であるが、後述のように李朝時代末期において多大な影響をもたらしたため、現在、単に「大院君」と言えば、通常は興宣大院君を指す。敬称は、「閣下」と「大院位大監」(대원위대감)である。
rdfs:label
  • 興宣大院君
owl:sameAs
prov:wasDerivedFrom
foaf:depiction
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbpedia-owl:opponents of
is dbpedia-owl:wikiPageRedirects of
is dbpedia-owl:wikiPageWikiLink of
is prop-ja: of
is foaf:primaryTopic of