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  • 4代目橘家 圓喬(たちばなや えんきょう、慶応元年11月9日(1865年12月26日) - 大正元年(1912年)11月22日)は、東京出身の落語家。本名:柴田清五郎。(元は桑原で養子になり柴田になったと思われる。)1865年11月9日生まれ、近所に4代目橘家圓太郎(「ラッパの圓太郎」)が住んでいた関係で幼いころから寄席の楽屋に出入りするようになり、1872年に7歳の若さで三遊亭圓朝門下に入門し三遊亭朝太を名乗る。1878年に二つ目昇進し、2代目三遊亭圓好に改名。1882年には東京を離れ上方で修行、1885年に4代目三遊亭?圓喬となり1887年頃には改めて4代目橘家圓喬襲名し、日本橋瀬戸物町の伊勢本で真打昇進披露。1903年には「第一次落語研究会」発足に参加。1912年11月16日新宿末廣亭での最後の高座。その6日後、宿痾の肺病のため死去。日本橋住吉町の玄冶店に住んでいたので「住吉町の師匠」や「住吉町さん」や「玄冶店の師匠」などで呼ばれた。圓朝門下の逸材で師の名跡を継ぐ話もあったが、狷介な性格が災いして立ち消えになった。気に入らない者には、わざとその前の高座に上がって噺をみっちりやって次に出た者を困らせ、それを楽屋で聞いて冷笑していたり、4代目橘家圓蔵が高座に上がっている時、楽屋で「何でげす。品川のはア。ありゃ噺(はなし)じゃありやせんな。おしゃべりでげす。」と聞こえよがしに悪口を言うなど、仲間うちから嫌われていた。だが、芸に対しては真剣であり、前座や若手相手に熱心に噺の指導をして自分の出番を忘れたり、5代目三遊亭圓生が前座の頃、圓喬に噺の間違いを指摘したらいきなり正座して「ありがとうございました。」と一礼したという。また初代三遊亭右女助(後の4代目古今亭今輔)が大阪からきたばかりで、馴染みがなく困っていたところを、圓喬は右女助の高座の前で引っ込む際に「さて次に上がりまする右女助は大阪から来たばかりなので、よろしくおひきたてのほどをお願い申し上げます。」との口上を毎晩言って助けるなど人情味の厚い一面もあった。墓所は豊島区法明寺。辞世の句は『筆持って月と話すや冬の宵』。「鰍沢」「三軒長屋」「牡丹灯籠」「柳の馬場」「真景累ヶ淵」「たらちね」「安中草三郎」などを得意とする。後世に大きな影響を与えた名人であり、「魚売人」「二人癖」など20種類ほどのSPレコードを遺している。弟子に2代目蜃気楼龍玉、橘家小圓喬(立岩栄吉、4代目三遊亭圓生の実子)、4代目三遊亭圓好(中田音吉)、3代目三遊亭金朝、橘家林喬(林林蔵)、橘家喬之助(畑中ます、「チンクシャ」の喬之助)、橘家岩喬(瀬川栄助、後の3代目柳亭左龍)、橘家東喬(小林捨吉、後の9代目金原亭馬生)、橘家喬雀(小林兼次郎、後の三遊亭遊朝)、橘家喬雀(郷嘉七)、橘家喬生(中田徳太郎、後の朝寝坊志らく、初代三遊亭圓之助の実子)、橘家喬太(山内正次郎、後の三遊亭圓丈)、橘家三木助(上方の桂仁左衛門門下から東京に出て2代目桂三木助)、橘家右圓喬(後の初代柳家三語楼)、橘家喬松(後の9代目土橋亭里う馬)などがいた。
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  • 4代目橘家 圓喬(たちばなや えんきょう、慶応元年11月9日(1865年12月26日) - 大正元年(1912年)11月22日)は、東京出身の落語家。本名:柴田清五郎。(元は桑原で養子になり柴田になったと思われる。)1865年11月9日生まれ、近所に4代目橘家圓太郎(「ラッパの圓太郎」)が住んでいた関係で幼いころから寄席の楽屋に出入りするようになり、1872年に7歳の若さで三遊亭圓朝門下に入門し三遊亭朝太を名乗る。1878年に二つ目昇進し、2代目三遊亭圓好に改名。1882年には東京を離れ上方で修行、1885年に4代目三遊亭?圓喬となり1887年頃には改めて4代目橘家圓喬襲名し、日本橋瀬戸物町の伊勢本で真打昇進披露。1903年には「第一次落語研究会」発足に参加。1912年11月16日新宿末廣亭での最後の高座。その6日後、宿痾の肺病のため死去。日本橋住吉町の玄冶店に住んでいたので「住吉町の師匠」や「住吉町さん」や「玄冶店の師匠」などで呼ばれた。圓朝門下の逸材で師の名跡を継ぐ話もあったが、狷介な性格が災いして立ち消えになった。気に入らない者には、わざとその前の高座に上がって噺をみっちりやって次に出た者を困らせ、それを楽屋で聞いて冷笑していたり、4代目橘家圓蔵が高座に上がっている時、楽屋で「何でげす。品川のはア。ありゃ噺(はなし)じゃありやせんな。おしゃべりでげす。」と聞こえよがしに悪口を言うなど、仲間うちから嫌われていた。だが、芸に対しては真剣であり、前座や若手相手に熱心に噺の指導をして自分の出番を忘れたり、5代目三遊亭圓生が前座の頃、圓喬に噺の間違いを指摘したらいきなり正座して「ありがとうございました。」と一礼したという。また初代三遊亭右女助(後の4代目古今亭今輔)が大阪からきたばかりで、馴染みがなく困っていたところを、圓喬は右女助の高座の前で引っ込む際に「さて次に上がりまする右女助は大阪から来たばかりなので、よろしくおひきたてのほどをお願い申し上げます。」との口上を毎晩言って助けるなど人情味の厚い一面もあった。墓所は豊島区法明寺。辞世の句は『筆持って月と話すや冬の宵』。「鰍沢」「三軒長屋」「牡丹灯籠」「柳の馬場」「真景累ヶ淵」「たらちね」「安中草三郎」などを得意とする。後世に大きな影響を与えた名人であり、「魚売人」「二人癖」など20種類ほどのSPレコードを遺している。弟子に2代目蜃気楼龍玉、橘家小圓喬(立岩栄吉、4代目三遊亭圓生の実子)、4代目三遊亭圓好(中田音吉)、3代目三遊亭金朝、橘家林喬(林林蔵)、橘家喬之助(畑中ます、「チンクシャ」の喬之助)、橘家岩喬(瀬川栄助、後の3代目柳亭左龍)、橘家東喬(小林捨吉、後の9代目金原亭馬生)、橘家喬雀(小林兼次郎、後の三遊亭遊朝)、橘家喬雀(郷嘉七)、橘家喬生(中田徳太郎、後の朝寝坊志らく、初代三遊亭圓之助の実子)、橘家喬太(山内正次郎、後の三遊亭圓丈)、橘家三木助(上方の桂仁左衛門門下から東京に出て2代目桂三木助)、橘家右圓喬(後の初代柳家三語楼)、橘家喬松(後の9代目土橋亭里う馬)などがいた。
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  • 橘家圓喬 (4代目)
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