横田 頼業(よこた よりなり)は鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人。宇都宮頼綱の次男。嘉禎3年(1237年)10月に横田城を築いて居城とし、横田郷千余町を支配して横田氏を創始する。建長元年(1249年)には、上三川城を築いて居城を移している。母は稲毛重成の娘であり、上条時綱は同母兄にあたる。寛喜元年9月になると当主である兄の宇都宮泰綱の活動が活発化し、それに伴い頼業や兄弟である時綱、宗朝、従兄弟にあたる塩谷親朝、笠間時朝兄弟らとともに幕府に出仕し活躍した。吾妻鏡には、承久元年(1220年)5月20日の藤原頼経の関東下向の先陣に名を連ねるのを始めとして、数多くの記述にその名が散見され、また、知勇兼備の武将として名高く、歌人として文化的に活躍するだけでなく、承久軍物語では、特筆してその武勇が讃えられており、有力御家人として活躍していた事がうかがえる。仁治(1240年)元年には伊予国の守護職に就いていた。宝治元年6月5日(1247年7月8日)に起きた宝治合戦では、同母兄の上条時綱と対立し、三浦氏に加担しなかったので粛清から逃れることができた。時綱は三浦一族とともに鎌倉法華堂で自害し、子の時村は宇都宮小田橋で殺害された。建治3年8月11日没。享年83。
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