明智 光忠(あけち みつただ、天文9年(1540年)? - 天正10年6月15日(1582年7月4日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。明智光秀の家臣。丹波国八上城主。通称は次右衛門、治右衛門、二郎四郎。光秀の叔父にあたる明智光久(或いは明智光安)の子。または美濃国の農民出身とも。妻は光秀の娘。娘は細川忠興の側室。天正3年(1575)の丹波過部城攻めの功績で、織田信長より感状を下された。天正10年(1582年)の本能寺の変では、信長の子の織田信忠らが篭る二条御所を攻撃した。その際に鉄砲で撃たれ重傷を負い知恩院で療養していたが、同年山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗れ討ち死にした事を知ると、自害して果てた。
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