新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。姓名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 義貞が生まれた鎌倉末期までの新田氏は、清和源氏たる河内源氏の一流であったものの、頼朝の時代から近親として優遇され、北条氏と婚姻関係を結んできた名門としてその名を全国に知られた足利氏に比べ、名声も官位も領地の規模や幕府内の地位もはるかに劣ったばかりでなく、その差は広がるばかりであった(後述)。ただし、対立していたわけではなく、鎌倉時代を通して婚姻関係もあり、また、失態の処理の融通などから後期には新田家は足利家に対して従属関係にあり、建武の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。こうした逆境の中、元弘の乱(1331年 - 1333年)では後醍醐天皇に呼応して関東方面の主将となり、名目上の総大将は幼少の足利義詮であったとはいえ、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本体を滅ぼすという軍功を立てた。

Property Value
dbo:abstract
  • 新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。姓名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 義貞が生まれた鎌倉末期までの新田氏は、清和源氏たる河内源氏の一流であったものの、頼朝の時代から近親として優遇され、北条氏と婚姻関係を結んできた名門としてその名を全国に知られた足利氏に比べ、名声も官位も領地の規模や幕府内の地位もはるかに劣ったばかりでなく、その差は広がるばかりであった(後述)。ただし、対立していたわけではなく、鎌倉時代を通して婚姻関係もあり、また、失態の処理の融通などから後期には新田家は足利家に対して従属関係にあり、建武の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。こうした逆境の中、元弘の乱(1331年 - 1333年)では後醍醐天皇に呼応して関東方面の主将となり、名目上の総大将は幼少の足利義詮であったとはいえ、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本体を滅ぼすという軍功を立てた。 史上最大の軍記物語『太平記』(1370年頃完成)においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。同僚の楠木正成がその計略を陳平・張良に喩えられるのに対し、義貞はその将才を韓信に喩えられる。『太平記』ではその死について、雑兵に討ち取られた点を戦略的に批判されるが、京都の民衆や実在不明の愛人からはその死を深く悼まれるなど感情的には同情的な論調で描かれており、山本隆志は巻20全体が『太平記』成立時点での京都人の感情を反映し、義貞を追悼して書かれたものではないかと推測している。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあったという評価がある。こうした評価は足利氏寄りの史書『梅松論』(14世紀半ば)に早くも現れ、義貞は「疑なき名将」として登場し、同書中では楠木正成さえも軍事的才能については義貞に一目置いており、義貞は「関東を落す事は子細なし」(鎌倉幕府を滅ぼす程度は容易くできる)と正成の口から絶賛される。尊氏に仕えた武将が記した『源威集』(14世紀後半)でも「建武ニ義貞、文和ニ将軍(中略)共ニ名将」と、義貞と尊氏が同格の名将として並称されている。山本は、歴史上の義貞も関東の地形や北条軍の配置を熟知していたと見られ、特に分倍河原の戦いでの優れた差配が、元弘の乱の関東方面での後醍醐勢力勝利への転換点となったことを指摘する。その一方で、『梅松論』に登場する正成は、人望については、義貞よりも尊氏の方がより多くを集めていると義貞を低く評価する。この点について、山本は、義貞には戦は武士のものという鎌倉武士的な固定観念があり、公家大将と連携が取れず、また寺社勢力との繋がりが弱かったという弱点があったのではないかとしている。 後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏と後醍醐天皇との間で建武の乱が発生すると、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命される。各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していたとされる兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。ただし、実際に義貞のものかどうかは疑問視されている。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。 (ja)
  • 新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。姓名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 義貞が生まれた鎌倉末期までの新田氏は、清和源氏たる河内源氏の一流であったものの、頼朝の時代から近親として優遇され、北条氏と婚姻関係を結んできた名門としてその名を全国に知られた足利氏に比べ、名声も官位も領地の規模や幕府内の地位もはるかに劣ったばかりでなく、その差は広がるばかりであった(後述)。ただし、対立していたわけではなく、鎌倉時代を通して婚姻関係もあり、また、失態の処理の融通などから後期には新田家は足利家に対して従属関係にあり、建武の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。こうした逆境の中、元弘の乱(1331年 - 1333年)では後醍醐天皇に呼応して関東方面の主将となり、名目上の総大将は幼少の足利義詮であったとはいえ、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本体を滅ぼすという軍功を立てた。 史上最大の軍記物語『太平記』(1370年頃完成)においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。同僚の楠木正成がその計略を陳平・張良に喩えられるのに対し、義貞はその将才を韓信に喩えられる。『太平記』ではその死について、雑兵に討ち取られた点を戦略的に批判されるが、京都の民衆や実在不明の愛人からはその死を深く悼まれるなど感情的には同情的な論調で描かれており、山本隆志は巻20全体が『太平記』成立時点での京都人の感情を反映し、義貞を追悼して書かれたものではないかと推測している。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあったという評価がある。こうした評価は足利氏寄りの史書『梅松論』(14世紀半ば)に早くも現れ、義貞は「疑なき名将」として登場し、同書中では楠木正成さえも軍事的才能については義貞に一目置いており、義貞は「関東を落す事は子細なし」(鎌倉幕府を滅ぼす程度は容易くできる)と正成の口から絶賛される。尊氏に仕えた武将が記した『源威集』(14世紀後半)でも「建武ニ義貞、文和ニ将軍(中略)共ニ名将」と、義貞と尊氏が同格の名将として並称されている。山本は、歴史上の義貞も関東の地形や北条軍の配置を熟知していたと見られ、特に分倍河原の戦いでの優れた差配が、元弘の乱の関東方面での後醍醐勢力勝利への転換点となったことを指摘する。その一方で、『梅松論』に登場する正成は、人望については、義貞よりも尊氏の方がより多くを集めていると義貞を低く評価する。この点について、山本は、義貞には戦は武士のものという鎌倉武士的な固定観念があり、公家大将と連携が取れず、また寺社勢力との繋がりが弱かったという弱点があったのではないかとしている。 後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏と後醍醐天皇との間で建武の乱が発生すると、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命される。各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していたとされる兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。ただし、実際に義貞のものかどうかは疑問視されている。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。 (ja)
dbo:alias
  • 小太郎(通称)、孫太郎 (ja)
  • 源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位 (ja)
  • 金龍寺殿眞山良悟大禅定門 (ja)
  • 小太郎(通称)、孫太郎 (ja)
  • 源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位 (ja)
  • 金龍寺殿眞山良悟大禅定門 (ja)
dbo:child
dbo:parent
dbo:sibling
dbo:spouse
dbo:wikiPageExternalLink
dbo:wikiPageID
  • 82440 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 51031 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 81358492 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
prop-ja:主君
prop-ja:兄弟
  • 義貞、脇屋義助、大舘宗氏室 (ja)
  • 義貞、脇屋義助、大舘宗氏室 (ja)
prop-ja:別名
  • 小太郎(通称)、孫太郎 (ja)
  • 小太郎(通称)、孫太郎 (ja)
prop-ja:墓所
  • 福井県坂井市丸岡町長崎の称念寺 (ja)
  • 茨城県龍ケ崎市若柴町の金竜寺 (ja)
  • 福井県坂井市丸岡町長崎の称念寺 (ja)
  • 茨城県龍ケ崎市若柴町の金竜寺 (ja)
prop-ja:
  • 小田真知女、天野時宣女ほか (ja)
  • 小田真知女、天野時宣女ほか (ja)
prop-ja:
prop-ja:官位
prop-ja:幕府
prop-ja:戒名
  • 源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位 (ja)
  • 金龍寺殿眞山良悟大禅定門 (ja)
  • 源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位 (ja)
  • 金龍寺殿眞山良悟大禅定門 (ja)
prop-ja:時代
prop-ja:死没
  • --07-02
prop-ja:氏名
  • 新田義貞 (ja)
  • 新田義貞 (ja)
prop-ja:氏族
  • 河内源氏義国流新田氏 (ja)
  • 河内源氏義国流新田氏 (ja)
prop-ja:父母
  • 父:新田朝氏、母:不詳 (ja)
  • 父:新田朝氏、母:不詳 (ja)
prop-ja:生誕
  • 正安3年(1301年)頃 (ja)
  • 正安3年(1301年)頃 (ja)
prop-ja:画像
  • 新田義貞公肖像.jpg (ja)
  • 新田義貞公肖像.jpg (ja)
prop-ja:画像サイズ
  • 250 (xsd:integer)
prop-ja:画像説明
  • 新田義貞像(藤島神社蔵) (ja)
  • 狩野探幽原画 小川破笠写 (ja)
  • 新田義貞像(藤島神社蔵) (ja)
  • 狩野探幽原画 小川破笠写 (ja)
dct:subject
rdf:type
rdfs:comment
  • 新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。姓名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 義貞が生まれた鎌倉末期までの新田氏は、清和源氏たる河内源氏の一流であったものの、頼朝の時代から近親として優遇され、北条氏と婚姻関係を結んできた名門としてその名を全国に知られた足利氏に比べ、名声も官位も領地の規模や幕府内の地位もはるかに劣ったばかりでなく、その差は広がるばかりであった(後述)。ただし、対立していたわけではなく、鎌倉時代を通して婚姻関係もあり、また、失態の処理の融通などから後期には新田家は足利家に対して従属関係にあり、建武の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。こうした逆境の中、元弘の乱(1331年 - 1333年)では後醍醐天皇に呼応して関東方面の主将となり、名目上の総大将は幼少の足利義詮であったとはいえ、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本体を滅ぼすという軍功を立てた。 (ja)
  • 新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。姓名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 義貞が生まれた鎌倉末期までの新田氏は、清和源氏たる河内源氏の一流であったものの、頼朝の時代から近親として優遇され、北条氏と婚姻関係を結んできた名門としてその名を全国に知られた足利氏に比べ、名声も官位も領地の規模や幕府内の地位もはるかに劣ったばかりでなく、その差は広がるばかりであった(後述)。ただし、対立していたわけではなく、鎌倉時代を通して婚姻関係もあり、また、失態の処理の融通などから後期には新田家は足利家に対して従属関係にあり、建武の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。こうした逆境の中、元弘の乱(1331年 - 1333年)では後醍醐天皇に呼応して関東方面の主将となり、名目上の総大将は幼少の足利義詮であったとはいえ、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本体を滅ぼすという軍功を立てた。 (ja)
rdfs:label
  • 新田義貞 (ja)
  • 新田義貞 (ja)
owl:sameAs
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
foaf:name
  • 新田義貞 (ja)
  • 新田義貞 (ja)
is dbo:child of
is dbo:enshrinedDeity of
is dbo:opponents of
is dbo:parent of
is dbo:sibling of
is dbo:spouse of
is dbo:wikiPageRedirects of
is dbo:wikiPageWikiLink of
is prop-ja:caption of
is prop-ja:commander of
is prop-ja:主君 of
is prop-ja:人物 of
is prop-ja:兄弟 of
is prop-ja: of
is prop-ja:画像説明 of
is prop-ja:祭神 of
is prop-ja:配偶者 of
is prop-ja:開基 of
is foaf:primaryTopic of