慶寿院(けいじゅいん、永正11年(1514年) - 永禄8年5月19日(1565年6月17日))は、室町幕府第12代将軍足利義晴の正室。関白近衛尚通の娘。生母・実名については不詳。第13代将軍義輝及び第15代将軍義昭の生母。天文3年6月8日(1534年7月18日)に足利義晴との婚姻の儀が行われる。当日は雷を伴う夕立の中で儀式が行われたという(『御湯殿上日記』)。足利将軍家の正室は足利義満以来、日野家から迎えられてきたが、ここにおいて初めて摂関家から正室を迎えたのである。天文5年3月10日(1536年3月31日)に南禅寺において嫡男である義輝を生む。天文15年12月20日(1547年1月11日)に義晴が義輝に将軍職を譲る。天文19年5月4日(1550年5月20日)、義晴は亡命先の近江国にて「水腫」のために病死(『言継卿記』)し、間もなく彼女も出家して慶寿院と号した(『続応仁後記』天文19年5月9日条)。その後、慶寿院は若い義輝の後見人として政務の場にも登場するようになる。既に義晴の将軍在職中より、兄・稙家とともに政務への関与を裏付ける記録が『披露事記録』や『大舘常興日記』に見られる。また、大内氏家臣杉興重の官途についても彼女から内談衆への働きかけがあったという。また、義輝に所領を押領された山科言継が頼ったのも稙家及び慶寿院であり、『言継卿記』の天文17年(1547年)5月25-30日条には御礼のために近江を訪れ、その際に稙家夫妻と慶寿院に薬を献上したことが記されている。更に甥近衛前久の東国下向の背景には将軍家及び朝廷の再興を図るために長尾景虎の上洛に期待する慶寿院の関与もあったとする見方もある。だが、永禄8年(1565年)、松永久秀と三好三人衆が二条御所の足利義輝の二条御所を襲撃した際に義輝は討死、慶寿院も自ら火中に身を投じて自害をしたのである(永禄の変)。
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