Data Table
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  • 弘前大学教授夫人殺人事件(ひろさきだいがくきょうじゅふじんさつじんじけん)は、1949年(昭和24年)に青森県弘前市で発生した殺人事件と、それに伴った冤罪事件である。略称は弘前事件。殺人被害者の名を取って松永事件とも呼ばれる。1949年8月6日深夜、弘前医科大学教授松永藤雄の妻が在府町の寄宿先で刺殺された。弘前市警は近隣住民の無職の男、那須隆を逮捕。勾留延長や別件逮捕などを利用して厳しく追及した。那須は一貫して無実を主張したがアリバイはなく、事件の目撃者からも犯人であると断定され、精神鑑定でも那須は変態性欲者であるとの結果が出された。加えて那須の衣服に対する血痕鑑定でも血液の付着があるとの結果が出されたため、同年10月に那須は青森地裁弘前支部へ起訴された。一審では血液学の権威である東京大学医学部法医学教室教授古畑種基も数学を援用して那須の衣服の鑑定を行い、それには被害者のものと完全に一致する血液が付着していると結論した。これに対し那須の弁護人らは、実施された鑑定には不自然な点があるとして、物証は捏造されたものであると主張した。1951年(昭和26年)に下った一審判決では那須は殺人罪について無罪とされたが、裁判長はその理由を一切説明しなかった。仙台高裁で開かれた控訴審では那須が変態性欲者ではないとする精神鑑定の結果も出されたが、1952年(昭和27年)の控訴審判決は古畑の鑑定を始めとしてほぼ全面的に検察側の主張を容れ、那須は懲役15年の有罪判決を受けた。やがて判決が確定した那須は10年間服役し、この事件は法医学の力が有罪判決に寄与したモデルケースとして知られるようになった。しかし、事件から20年以上が経過した1971年(昭和46年)になって、事件当時は弘前在住で那須の知人であった男が、自らが事件の真犯人であると名乗り出た。那須は日本弁護士連合会や読売新聞などの協力を得て再審を請求し、その後行われた物証の再鑑定でも、過去の血痕鑑定には多くの批判が加えられた。1974年(昭和49年)に請求は一度棄却されたが、翌年に下された白鳥決定により再審の門戸が拡げられたことにより間もなく再審の開始が決定された。そして事件から28年が経過した1977年(昭和52年)、仙台高裁は物証の捏造を強く示唆して那須に対する殺人の罪を撤回し、事件は冤罪と認められた。だが、その後の国家賠償請求訴訟では国側の過失責任は否定され、那須の全面敗訴となった。
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  • 那須氏
  • 青森県出身の人物
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  • 那須隆
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prop-ja:事件名
  • 国家賠償請求、仮執行の原状回復命令申立事件
  • 殺人、銃砲等所持禁止令違反被告事件
prop-ja:事件番号
  • 昭和27(あ)4113
  • 昭和62(オ)667
prop-ja:判例集
  • 刑集第7巻第2号305頁
  • 民集第44巻第5号938頁
prop-ja:参照法条
prop-ja:反対意見
  • なし
prop-ja:多数意見
  • 全員一致
prop-ja:意見
  • なし
prop-ja:法廷名
  • 第一小法廷
  • 第二小法廷
prop-ja:裁判年月日
  • --02-19
  • --07-20
prop-ja:裁判要旨
  • # 鑑定とは、裁判上必要な実験則などに関する知識経験の不足を補うために、指示された事柄を第三者に新たに調査させ、法則やそれに基づく具体的事実判断を報告させるものである。 # 鑑定を行うに当たって必要とされる特別な知識経験は、必ずしも鑑定人その人の直接経験により得たものには限定されない。鑑定人は他人の著書やその他のものから得た知識によっても鑑定を行うことができる。
  • # 再審により無罪判決が確定した場合であっても、元の裁判において裁判官の行為に国家賠償法第1条第1項が定める違法を認め、国の損害賠償責任を認めるためには、その裁判官が違法または不当な目的で裁判をしたなど、職権をその趣旨に明らかに背いて行使したことが認められなければならない。 # 再審により無罪判決が確定した場合であっても、公訴の提起と追行の際に各証拠資料を総合してなお合理的な判断過程により有罪の嫌疑があった場合は、検察官による公訴の提起と追行は、国家賠償法第1条第1項が定める違法行為に当たらない。
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prop-ja:陪席裁判官
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  • 弘前大学教授夫人殺人事件(ひろさきだいがくきょうじゅふじんさつじんじけん)は、1949年(昭和24年)に青森県弘前市で発生した殺人事件と、それに伴った冤罪事件である。略称は弘前事件。殺人被害者の名を取って松永事件とも呼ばれる。1949年8月6日深夜、弘前医科大学教授松永藤雄の妻が在府町の寄宿先で刺殺された。弘前市警は近隣住民の無職の男、那須隆を逮捕。勾留延長や別件逮捕などを利用して厳しく追及した。那須は一貫して無実を主張したがアリバイはなく、事件の目撃者からも犯人であると断定され、精神鑑定でも那須は変態性欲者であるとの結果が出された。加えて那須の衣服に対する血痕鑑定でも血液の付着があるとの結果が出されたため、同年10月に那須は青森地裁弘前支部へ起訴された。一審では血液学の権威である東京大学医学部法医学教室教授古畑種基も数学を援用して那須の衣服の鑑定を行い、それには被害者のものと完全に一致する血液が付着していると結論した。これに対し那須の弁護人らは、実施された鑑定には不自然な点があるとして、物証は捏造されたものであると主張した。1951年(昭和26年)に下った一審判決では那須は殺人罪について無罪とされたが、裁判長はその理由を一切説明しなかった。仙台高裁で開かれた控訴審では那須が変態性欲者ではないとする精神鑑定の結果も出されたが、1952年(昭和27年)の控訴審判決は古畑の鑑定を始めとしてほぼ全面的に検察側の主張を容れ、那須は懲役15年の有罪判決を受けた。やがて判決が確定した那須は10年間服役し、この事件は法医学の力が有罪判決に寄与したモデルケースとして知られるようになった。しかし、事件から20年以上が経過した1971年(昭和46年)になって、事件当時は弘前在住で那須の知人であった男が、自らが事件の真犯人であると名乗り出た。那須は日本弁護士連合会や読売新聞などの協力を得て再審を請求し、その後行われた物証の再鑑定でも、過去の血痕鑑定には多くの批判が加えられた。1974年(昭和49年)に請求は一度棄却されたが、翌年に下された白鳥決定により再審の門戸が拡げられたことにより間もなく再審の開始が決定された。そして事件から28年が経過した1977年(昭和52年)、仙台高裁は物証の捏造を強く示唆して那須に対する殺人の罪を撤回し、事件は冤罪と認められた。だが、その後の国家賠償請求訴訟では国側の過失責任は否定され、那須の全面敗訴となった。
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  • 弘前大学教授夫人殺人事件
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