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  • 岡 国高(おか くにたか、生年未詳 - 天正5年10月10日(1577年11月19日?))は、戦国時代の武将。松永久秀の家臣。周防守。大和国岡城主で大和の土豪である。永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を奉じて入京すると、松永久秀と共にいち早く出仕し、義昭に臣従、信長に属す。しかし、早くも元亀2年(1571年)には久秀は武田信玄に通じ、その両者の媒介の役を務めたのが国高だとされる。同年5月12日には小幡信実から、5月17日には信玄から直接、久秀と信玄の協力体制への尽力を依頼されている(武州文書・荒尾文書)。しかし、この反信長の動きも天正元年(1573年)4月の信玄の死により頓挫、同年12月26日には久秀は多聞山城を開いて降伏しているが、9月11日付けで信長が国高に贈品を謝した書状があり(集古文書)、久秀より先に降伏していた模様である。しかし、翌年の天正2年(1574年)11月、織田信長の焼き討ちを受けて岡城は落城し、以後は松永久秀の家臣となった。焼き討ちの理由は興福寺との関係のためといわれる。天正5年(1577年)、久秀が織田信長に反逆した際は同調し、10月10日の久秀の死と運命を共にした、とされるが、天正8年(1580年)、10月22日に2000石を安堵された「岡」が多聞院日記に見えるので久秀に同調せず生命を永らえたのではという説もある。
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  • 岡 国高(おか くにたか、生年未詳 - 天正5年10月10日(1577年11月19日?))は、戦国時代の武将。松永久秀の家臣。周防守。大和国岡城主で大和の土豪である。永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を奉じて入京すると、松永久秀と共にいち早く出仕し、義昭に臣従、信長に属す。しかし、早くも元亀2年(1571年)には久秀は武田信玄に通じ、その両者の媒介の役を務めたのが国高だとされる。同年5月12日には小幡信実から、5月17日には信玄から直接、久秀と信玄の協力体制への尽力を依頼されている(武州文書・荒尾文書)。しかし、この反信長の動きも天正元年(1573年)4月の信玄の死により頓挫、同年12月26日には久秀は多聞山城を開いて降伏しているが、9月11日付けで信長が国高に贈品を謝した書状があり(集古文書)、久秀より先に降伏していた模様である。しかし、翌年の天正2年(1574年)11月、織田信長の焼き討ちを受けて岡城は落城し、以後は松永久秀の家臣となった。焼き討ちの理由は興福寺との関係のためといわれる。天正5年(1577年)、久秀が織田信長に反逆した際は同調し、10月10日の久秀の死と運命を共にした、とされるが、天正8年(1580年)、10月22日に2000石を安堵された「岡」が多聞院日記に見えるので久秀に同調せず生命を永らえたのではという説もある。
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  • 岡国高
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