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  • 寄合衆(よりあいしゅう)とは、武家における合議体である寄合の構成員であるが、狭義では北条氏得宗を中心とした鎌倉幕府の方針決定会議としての寄合の構成員を指す。宮騒動以後、宝治合戦、元寇にかけて続いた政治的緊張の中で確立された得宗専制体制の下で得宗の少数の幕府重臣によって行われた寄合が持つ政治的な意味が重くなっていった。寛元年間には北条時頼のもとに北条政村・金沢実時・安達義景・三浦泰村らが寄合を構成していたが、宝治合戦後には北条政村・金沢実時・安達泰盛・諏訪盛重らが構成するようになった。元寇期には北条時宗の元に安達泰盛・太田康有ら御家人のみならず、佐藤業連・諏訪盛経・平頼綱などの御内人層も寄合を構成するようになった。「寄合衆」という名称が初めて登場するのは、正応2年(1289年)に北条時村が寄合衆に任じられたとする記事(『鎌倉年代記』正安3年(1301年)条)である。幕府の公式な役職であった評定衆よりも権威を持つようになり、幕府内の最高の顕官の1つと考えられるようになった。延慶2年(1309年)に評定衆から寄合衆に転じた金沢貞顕は「面目の至り、申す計りなく候」という書状を記している(『金沢文庫文書』所収、原文漢文体)。鎌倉幕府滅亡後も、武家の当主を中心とした寄合の構成員を「寄合衆」と呼ばれる例があり、南北朝時代に菊地武重が記した「寄合衆内談の事」と呼ばれる起請文が存在する。なお、江戸幕府にも「寄合衆」は存在するが、3000石以上の旗本のうち無役の者を「寄合席」と呼称し、その集団を指したもので合議体の構成などの職掌を有したものではない。
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  • 寄合衆(よりあいしゅう)とは、武家における合議体である寄合の構成員であるが、狭義では北条氏得宗を中心とした鎌倉幕府の方針決定会議としての寄合の構成員を指す。宮騒動以後、宝治合戦、元寇にかけて続いた政治的緊張の中で確立された得宗専制体制の下で得宗の少数の幕府重臣によって行われた寄合が持つ政治的な意味が重くなっていった。寛元年間には北条時頼のもとに北条政村・金沢実時・安達義景・三浦泰村らが寄合を構成していたが、宝治合戦後には北条政村・金沢実時・安達泰盛・諏訪盛重らが構成するようになった。元寇期には北条時宗の元に安達泰盛・太田康有ら御家人のみならず、佐藤業連・諏訪盛経・平頼綱などの御内人層も寄合を構成するようになった。「寄合衆」という名称が初めて登場するのは、正応2年(1289年)に北条時村が寄合衆に任じられたとする記事(『鎌倉年代記』正安3年(1301年)条)である。幕府の公式な役職であった評定衆よりも権威を持つようになり、幕府内の最高の顕官の1つと考えられるようになった。延慶2年(1309年)に評定衆から寄合衆に転じた金沢貞顕は「面目の至り、申す計りなく候」という書状を記している(『金沢文庫文書』所収、原文漢文体)。鎌倉幕府滅亡後も、武家の当主を中心とした寄合の構成員を「寄合衆」と呼ばれる例があり、南北朝時代に菊地武重が記した「寄合衆内談の事」と呼ばれる起請文が存在する。なお、江戸幕府にも「寄合衆」は存在するが、3000石以上の旗本のうち無役の者を「寄合席」と呼称し、その集団を指したもので合議体の構成などの職掌を有したものではない。
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  • 寄合衆
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