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  • 姜沆(きょうこう、강항(カン・ハン)、Gang Hang、1567年5月17日 - 1618年5月6日)は、朝鮮李氏王朝時代中期の官人。字は太初(テチョ、태초)。号は睡隠(スウン、수은)。1593年、朝鮮王朝における文科に合格したが、1597年(慶長8年)の慶長の役(丁酉再乱)では刑曹佐郎という要職に就いており、全羅道で明の将軍・楊元への食糧輸送任務に従事していた。しかし日本軍の進撃によって全羅道戦線が崩壊し、一族で避難中に鳴梁海戦後に黄海沿岸へ進出していた藤堂高虎の水軍により捕虜とされ、海路日本へ移送された。日本では伊予国大洲に拘留され、のち伏見に移され、この頃に藤原惺窩と交流し彼の朱子学の体系化に大きな感化を与えたとされる。約3年にわたる俘虜生活の見聞(日本制度や情勢)は『看羊録』にまとめられた。1600年(慶長5年)4月に伏見を立ち、対馬を経由して朝鮮に帰国したが、再び仕官はしなかった。しかし、姜沆の文才を慕って学者が集まり、多くの門人を輩出した。『看羊録』は彼が日本で見聞したこと、日本の内情や国土の特徴、諸大名の情勢などを細かく記したもので、朝鮮王朝に対する提言集的な側面が強い。一方、見聞の中での様々な情動を見事な漢詩で記しているのもこの『看羊録』である。現在平凡社東洋文庫で、朴鐘鳴訳注『看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記』(1984年、のちワイド版)で読める。
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  • 姜沆(きょうこう、강항(カン・ハン)、Gang Hang、1567年5月17日 - 1618年5月6日)は、朝鮮李氏王朝時代中期の官人。字は太初(テチョ、태초)。号は睡隠(スウン、수은)。1593年、朝鮮王朝における文科に合格したが、1597年(慶長8年)の慶長の役(丁酉再乱)では刑曹佐郎という要職に就いており、全羅道で明の将軍・楊元への食糧輸送任務に従事していた。しかし日本軍の進撃によって全羅道戦線が崩壊し、一族で避難中に鳴梁海戦後に黄海沿岸へ進出していた藤堂高虎の水軍により捕虜とされ、海路日本へ移送された。日本では伊予国大洲に拘留され、のち伏見に移され、この頃に藤原惺窩と交流し彼の朱子学の体系化に大きな感化を与えたとされる。約3年にわたる俘虜生活の見聞(日本制度や情勢)は『看羊録』にまとめられた。1600年(慶長5年)4月に伏見を立ち、対馬を経由して朝鮮に帰国したが、再び仕官はしなかった。しかし、姜沆の文才を慕って学者が集まり、多くの門人を輩出した。『看羊録』は彼が日本で見聞したこと、日本の内情や国土の特徴、諸大名の情勢などを細かく記したもので、朝鮮王朝に対する提言集的な側面が強い。一方、見聞の中での様々な情動を見事な漢詩で記しているのもこの『看羊録』である。現在平凡社東洋文庫で、朴鐘鳴訳注『看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記』(1984年、のちワイド版)で読める。
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  • 姜コウ
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