Data Table
PropertyValue
dbpedia-owl:abstract
  • 本項では、日本国の文化財保護法により1951年以降に国宝に指定された彫刻作品を国宝彫刻の一覧(こくほうちょうこくのいちらん)として概説する。6世紀半ばの百済から日本への仏教公伝は、それまで停滞していた日本の彫刻に新風をもたらした。百済から渡来した僧侶、技術者、学者たちは朝廷があった大和国周辺に居住し、地元の職人らに新しい技術を伝えていった。その結果、飛鳥文化期(7世紀前半)の初期仏教彫刻群には、朝鮮半島を経由してもたらされた、中国南北朝時代の彫刻様式の影響がみられる。飛鳥寺本尊釈迦如来像(現存するが補修が甚大、重要文化財)、法隆寺金堂の『銅造釈迦如来及両脇侍像』を造った鞍作止利は渡来人系の仏師である。止利およびその工房の作風を止利式といい、杏仁形(アーモンド形)の目、仰月形(口角が上がった三日月形)の唇、左右対称の衣文(衣のひだ)などに中国、特に北魏後期様式からの色濃い影響が見られる。法隆寺夢殿の『木造観音菩薩立像(救世観音)』は、止利様式に似るが、衣の下の肉体の把握などに止利派とは異なった感覚が認められる。同じ法隆寺の『木造観音菩薩立像(百済観音)』は7世紀半ば頃の作品とされるが、止利派とは全く異なる作風を示すものである。以上のことから、飛鳥時代の彫刻には、北魏のみならず、中国、朝鮮半島のさまざまな彫刻様式が混在していると考えられる。7世紀半ばから平城京に遷都する710年頃までの時代を日本美術史では飛鳥時代後期(白鳳文化期)または奈良時代前期という(「白鳳時代」とも)。この時代にはそれまで彫刻の素材として主流だった銅や木材に加えて、乾漆像や塑像も造られるようになる。当時の中国の王朝だった唐の初期には、豊麗な姿形、細い切れ長の目、柔和な表情、緩やかな衣服、腕輪や装飾類など、より写実的な様式が発展していった。この初唐様式の影響を受けた日本の彫刻としては、法隆寺大宝蔵院の『銅造観音菩薩立像(夢違観音)』及び『銅造阿弥陀如来及び両脇侍像(橘夫人念持仏)』、當麻寺の『塑造弥勒仏坐像』、興福寺の『銅造仏頭』(旧山田寺薬師如来像頭部)が挙げられる。奈良時代(710年から794年)に、朝廷は東大寺など各所に仏教彫刻を制作する施設である造仏所を設立し、これを庇護した。聖武天皇は仏教に深く帰依し、造寺、造仏、写経を勧め、「奈良の大仏」として知られる東大寺の銅造盧舎那仏坐像を造立した。造仏所では彫刻制作に銅だけではなく粘土(塑造)、乾漆、木材も使用していた。この頃の彫刻には盛唐の様式による影響が見られ、自然な人体把握、均整のとれた造形、そして天部像などにみられる現実感のある描写が特徴的である。この時期の代表作として、東大寺法華堂の『乾漆不空羂索観音立像』をはじめとする諸像、同寺戒壇堂の『塑造四天王立像』、興福寺旧西金堂の『乾漆八部衆立像』『乾漆十大弟子立像』、唐招提寺の『乾漆盧舎那仏坐像』『乾漆鑑真和上坐像』などがある。薬師寺の『銅造薬師如来及び両脇侍像』『銅造観音菩薩(聖観音)立像』については、様式と技法から、奈良時代作・飛鳥時代後期(白鳳期)作の両説がある。平安時代には官製の造仏所ではなく寺院や市井の工房が仏像製作を担い、木材が主要な素材となるとともに、日本独自様式の彫刻が制作されるようになっていった。奈良時代以前に多くみられた銅造や塑造の仏像はまれになり、乾漆も木彫像の目鼻立ちや衣文などの細部表現に補助的に用いられることが多くなった。9世紀末頃までの平安時代初期(かつては弘仁・貞観期とも称された)の彫刻作品と10世紀以降の平安時代後期(藤原時代)の彫刻作品には大きな違いがある。平安時代初期の仏像には、主要部分を一本の木材から制作し(一木造)、眼、唇などを除いて彩色を施さない檀像様と呼ばれる様式のものと、木彫に乾漆を併用した様式のものの、2つの大きな流れがある。前者の代表例には新薬師寺『木造薬師如来坐像』、神護寺『木造薬師如来立像』、法華寺『木造十一面観音立像』などがあり、後者の代表例には観心寺『木造如意輪観音坐像』、東寺講堂諸像などがある。作風は量感を強調した肉身表現、神秘的な面相、深く鋭利な衣文表現などに特色があり、衣文には太い波と細く鋭利な波を交互に表した翻波式(ほんぱしき)衣文、衣の端を渦状に表現した渦文などが現れる。この時代には近畿以外の地方にも仏像の遺例がみられるようになり、福島・勝常寺『木造薬師如来及び両脇侍像』はその代表例である。10世紀半ば以降には、より穏やかで優美な表現の彫刻が見られるようになり、11世紀にはこの傾向が一段と強まる。この頃の仏師としては11世紀の定朝が最も重要で、頭・胴・脚部など像の主要部をそれぞれ複数の木材を組み合わせて制作する技法である寄木造を完成させた。定朝はその後発展する仏教彫刻の三流派、円派、院派、慶派の祖といえる。しかしながら、確実に定朝作と見なされている作品は平等院鳳凰堂本尊の『木造阿弥陀如来坐像』しか現存していない。慶派の活躍により、日本の彫刻は鎌倉時代に大きな変革期を迎えた。一部に宋の影響を受け、精巧な頭部の巻髪、宝飾、波打つような衣服といった写実的な表現が特徴である。素材としては木材が主流だったが、青銅も使用されていた。また新しい要素として、著名な仏僧の肖像彫刻が仏像の脇侍として制作されたことがあげられる。日本では1897年から特に優れた文化財を「国宝」に指定してきた。「国宝」という用語は1897年施行の古社寺保存法で初めて用いられた。古社寺保存法およびそれを継いだ国宝保存法に基づいて指定された「国宝」(いわゆる旧国宝)は現行法の「重要文化財」に相当する。1950年に施行された文化財保護法により、それまでに指定された「国宝」は「重要文化財」とされ、重要文化財の中で特に重要なものがあらためて国宝(いわゆる新国宝)に指定されるようになった。現在の国宝彫刻は文部科学大臣が「重要文化財のうち世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」(文化財保護法第27条第2項)として指定したもので、新制度による最初の国宝指定は1951年6月9日に行われた。彫刻作品として、7世紀の飛鳥時代から13世紀の鎌倉時代までの作品128件が国宝指定されている。ただし、複数の彫刻で1件として国宝指定されているものも存在するため、実際の作品数は128件よりも多い。国宝指定されている彫刻は仏教や神道の創始者や神々を表現したもので、その中には直接中国から輸入された彫刻も含まれている。
dbpedia-owl:thumbnail
dbpedia-owl:wikiPageExternalLink
dbpedia-owl:wikiPageID
  • 2308127 (xsd:integer)
dbpedia-owl:wikiPageLength
  • 88238 (xsd:integer)
dbpedia-owl:wikiPageOutDegree
  • 1127 (xsd:integer)
dbpedia-owl:wikiPageRevisionID
  • 56560762 (xsd:integer)
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
dcterms:subject
rdfs:comment
  • 本項では、日本国の文化財保護法により1951年以降に国宝に指定された彫刻作品を国宝彫刻の一覧(こくほうちょうこくのいちらん)として概説する。6世紀半ばの百済から日本への仏教公伝は、それまで停滞していた日本の彫刻に新風をもたらした。百済から渡来した僧侶、技術者、学者たちは朝廷があった大和国周辺に居住し、地元の職人らに新しい技術を伝えていった。その結果、飛鳥文化期(7世紀前半)の初期仏教彫刻群には、朝鮮半島を経由してもたらされた、中国南北朝時代の彫刻様式の影響がみられる。飛鳥寺本尊釈迦如来像(現存するが補修が甚大、重要文化財)、法隆寺金堂の『銅造釈迦如来及両脇侍像』を造った鞍作止利は渡来人系の仏師である。止利およびその工房の作風を止利式といい、杏仁形(アーモンド形)の目、仰月形(口角が上がった三日月形)の唇、左右対称の衣文(衣のひだ)などに中国、特に北魏後期様式からの色濃い影響が見られる。法隆寺夢殿の『木造観音菩薩立像(救世観音)』は、止利様式に似るが、衣の下の肉体の把握などに止利派とは異なった感覚が認められる。同じ法隆寺の『木造観音菩薩立像(百済観音)』は7世紀半ば頃の作品とされるが、止利派とは全く異なる作風を示すものである。以上のことから、飛鳥時代の彫刻には、北魏のみならず、中国、朝鮮半島のさまざまな彫刻様式が混在していると考えられる。7世紀半ばから平城京に遷都する710年頃までの時代を日本美術史では飛鳥時代後期(白鳳文化期)または奈良時代前期という(「白鳳時代」とも)。この時代にはそれまで彫刻の素材として主流だった銅や木材に加えて、乾漆像や塑像も造られるようになる。当時の中国の王朝だった唐の初期には、豊麗な姿形、細い切れ長の目、柔和な表情、緩やかな衣服、腕輪や装飾類など、より写実的な様式が発展していった。この初唐様式の影響を受けた日本の彫刻としては、法隆寺大宝蔵院の『銅造観音菩薩立像(夢違観音)』及び『銅造阿弥陀如来及び両脇侍像(橘夫人念持仏)』、當麻寺の『塑造弥勒仏坐像』、興福寺の『銅造仏頭』(旧山田寺薬師如来像頭部)が挙げられる。奈良時代(710年から794年)に、朝廷は東大寺など各所に仏教彫刻を制作する施設である造仏所を設立し、これを庇護した。聖武天皇は仏教に深く帰依し、造寺、造仏、写経を勧め、「奈良の大仏」として知られる東大寺の銅造盧舎那仏坐像を造立した。造仏所では彫刻制作に銅だけではなく粘土(塑造)、乾漆、木材も使用していた。この頃の彫刻には盛唐の様式による影響が見られ、自然な人体把握、均整のとれた造形、そして天部像などにみられる現実感のある描写が特徴的である。この時期の代表作として、東大寺法華堂の『乾漆不空羂索観音立像』をはじめとする諸像、同寺戒壇堂の『塑造四天王立像』、興福寺旧西金堂の『乾漆八部衆立像』『乾漆十大弟子立像』、唐招提寺の『乾漆盧舎那仏坐像』『乾漆鑑真和上坐像』などがある。薬師寺の『銅造薬師如来及び両脇侍像』『銅造観音菩薩(聖観音)立像』については、様式と技法から、奈良時代作・飛鳥時代後期(白鳳期)作の両説がある。平安時代には官製の造仏所ではなく寺院や市井の工房が仏像製作を担い、木材が主要な素材となるとともに、日本独自様式の彫刻が制作されるようになっていった。奈良時代以前に多くみられた銅造や塑造の仏像はまれになり、乾漆も木彫像の目鼻立ちや衣文などの細部表現に補助的に用いられることが多くなった。9世紀末頃までの平安時代初期(かつては弘仁・貞観期とも称された)の彫刻作品と10世紀以降の平安時代後期(藤原時代)の彫刻作品には大きな違いがある。平安時代初期の仏像には、主要部分を一本の木材から制作し(一木造)、眼、唇などを除いて彩色を施さない檀像様と呼ばれる様式のものと、木彫に乾漆を併用した様式のものの、2つの大きな流れがある。前者の代表例には新薬師寺『木造薬師如来坐像』、神護寺『木造薬師如来立像』、法華寺『木造十一面観音立像』などがあり、後者の代表例には観心寺『木造如意輪観音坐像』、東寺講堂諸像などがある。作風は量感を強調した肉身表現、神秘的な面相、深く鋭利な衣文表現などに特色があり、衣文には太い波と細く鋭利な波を交互に表した翻波式(ほんぱしき)衣文、衣の端を渦状に表現した渦文などが現れる。この時代には近畿以外の地方にも仏像の遺例がみられるようになり、福島・勝常寺『木造薬師如来及び両脇侍像』はその代表例である。10世紀半ば以降には、より穏やかで優美な表現の彫刻が見られるようになり、11世紀にはこの傾向が一段と強まる。この頃の仏師としては11世紀の定朝が最も重要で、頭・胴・脚部など像の主要部をそれぞれ複数の木材を組み合わせて制作する技法である寄木造を完成させた。定朝はその後発展する仏教彫刻の三流派、円派、院派、慶派の祖といえる。しかしながら、確実に定朝作と見なされている作品は平等院鳳凰堂本尊の『木造阿弥陀如来坐像』しか現存していない。慶派の活躍により、日本の彫刻は鎌倉時代に大きな変革期を迎えた。一部に宋の影響を受け、精巧な頭部の巻髪、宝飾、波打つような衣服といった写実的な表現が特徴である。素材としては木材が主流だったが、青銅も使用されていた。また新しい要素として、著名な仏僧の肖像彫刻が仏像の脇侍として制作されたことがあげられる。日本では1897年から特に優れた文化財を「国宝」に指定してきた。「国宝」という用語は1897年施行の古社寺保存法で初めて用いられた。古社寺保存法およびそれを継いだ国宝保存法に基づいて指定された「国宝」(いわゆる旧国宝)は現行法の「重要文化財」に相当する。1950年に施行された文化財保護法により、それまでに指定された「国宝」は「重要文化財」とされ、重要文化財の中で特に重要なものがあらためて国宝(いわゆる新国宝)に指定されるようになった。現在の国宝彫刻は文部科学大臣が「重要文化財のうち世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」(文化財保護法第27条第2項)として指定したもので、新制度による最初の国宝指定は1951年6月9日に行われた。彫刻作品として、7世紀の飛鳥時代から13世紀の鎌倉時代までの作品128件が国宝指定されている。ただし、複数の彫刻で1件として国宝指定されているものも存在するため、実際の作品数は128件よりも多い。国宝指定されている彫刻は仏教や神道の創始者や神々を表現したもので、その中には直接中国から輸入された彫刻も含まれている。
rdfs:label
  • 国宝彫刻の一覧
owl:sameAs
prov:wasDerivedFrom
foaf:depiction
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbpedia-owl:wikiPageWikiLink of
is foaf:primaryTopic of