喜撰(きせん、生没年不詳、伝不詳)は、平安時代初期の真言宗の僧・歌人。六歌仙の1人。 伝承では山城国乙訓郡の生まれとされ、出家後にへと入り、後にに隠棲しやがて仙人に変じたといわれる。下に掲げる二首の歌のみが伝えられ、詳しい伝記などは不明。なお「喜撰」の名は、紀貫之の変名という説もある。また桓武天皇の末裔とも、橘諸兄の孫で、橘奈良麻呂の子ともいわれる。「古今和歌集仮名序」には、「ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず」と評されている。 歌学書『』(一名『』)の作者とも伝えられるが、今日では平安時代後期の偽書()と見られている。また、『無名抄』によれば、宇治市のの奥に喜撰の住みかの跡があり、歌人必見であるという。今もという小さな洞窟が山腹に残る。 現在に伝わる詠歌は以下の二首のみ。 * (小倉百人一首 8番) わが庵は都の辰巳しかぞすむ世を宇治山と人はいふなり(古今和歌集983。また百人一首) * 木の間より見ゆるは谷の蛍かもいさりに海人の海へ行くかも(玉葉和歌集400。また孫姫式)

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  • 喜撰(きせん、生没年不詳、伝不詳)は、平安時代初期の真言宗の僧・歌人。六歌仙の1人。 伝承では山城国乙訓郡の生まれとされ、出家後にへと入り、後にに隠棲しやがて仙人に変じたといわれる。下に掲げる二首の歌のみが伝えられ、詳しい伝記などは不明。なお「喜撰」の名は、紀貫之の変名という説もある。また桓武天皇の末裔とも、橘諸兄の孫で、橘奈良麻呂の子ともいわれる。「古今和歌集仮名序」には、「ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず」と評されている。 歌学書『』(一名『』)の作者とも伝えられるが、今日では平安時代後期の偽書()と見られている。また、『無名抄』によれば、宇治市のの奥に喜撰の住みかの跡があり、歌人必見であるという。今もという小さな洞窟が山腹に残る。 現在に伝わる詠歌は以下の二首のみ。 * (小倉百人一首 8番) わが庵は都の辰巳しかぞすむ世を宇治山と人はいふなり(古今和歌集983。また百人一首) * 木の間より見ゆるは谷の蛍かもいさりに海人の海へ行くかも(玉葉和歌集400。また孫姫式) (ja)
  • 喜撰(きせん、生没年不詳、伝不詳)は、平安時代初期の真言宗の僧・歌人。六歌仙の1人。 伝承では山城国乙訓郡の生まれとされ、出家後にへと入り、後にに隠棲しやがて仙人に変じたといわれる。下に掲げる二首の歌のみが伝えられ、詳しい伝記などは不明。なお「喜撰」の名は、紀貫之の変名という説もある。また桓武天皇の末裔とも、橘諸兄の孫で、橘奈良麻呂の子ともいわれる。「古今和歌集仮名序」には、「ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず」と評されている。 歌学書『』(一名『』)の作者とも伝えられるが、今日では平安時代後期の偽書()と見られている。また、『無名抄』によれば、宇治市のの奥に喜撰の住みかの跡があり、歌人必見であるという。今もという小さな洞窟が山腹に残る。 現在に伝わる詠歌は以下の二首のみ。 * (小倉百人一首 8番) わが庵は都の辰巳しかぞすむ世を宇治山と人はいふなり(古今和歌集983。また百人一首) * 木の間より見ゆるは谷の蛍かもいさりに海人の海へ行くかも(玉葉和歌集400。また孫姫式) (ja)
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  • 喜撰(きせん、生没年不詳、伝不詳)は、平安時代初期の真言宗の僧・歌人。六歌仙の1人。 伝承では山城国乙訓郡の生まれとされ、出家後にへと入り、後にに隠棲しやがて仙人に変じたといわれる。下に掲げる二首の歌のみが伝えられ、詳しい伝記などは不明。なお「喜撰」の名は、紀貫之の変名という説もある。また桓武天皇の末裔とも、橘諸兄の孫で、橘奈良麻呂の子ともいわれる。「古今和歌集仮名序」には、「ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず」と評されている。 歌学書『』(一名『』)の作者とも伝えられるが、今日では平安時代後期の偽書()と見られている。また、『無名抄』によれば、宇治市のの奥に喜撰の住みかの跡があり、歌人必見であるという。今もという小さな洞窟が山腹に残る。 現在に伝わる詠歌は以下の二首のみ。 * (小倉百人一首 8番) わが庵は都の辰巳しかぞすむ世を宇治山と人はいふなり(古今和歌集983。また百人一首) * 木の間より見ゆるは谷の蛍かもいさりに海人の海へ行くかも(玉葉和歌集400。また孫姫式) (ja)
  • 喜撰(きせん、生没年不詳、伝不詳)は、平安時代初期の真言宗の僧・歌人。六歌仙の1人。 伝承では山城国乙訓郡の生まれとされ、出家後にへと入り、後にに隠棲しやがて仙人に変じたといわれる。下に掲げる二首の歌のみが伝えられ、詳しい伝記などは不明。なお「喜撰」の名は、紀貫之の変名という説もある。また桓武天皇の末裔とも、橘諸兄の孫で、橘奈良麻呂の子ともいわれる。「古今和歌集仮名序」には、「ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず」と評されている。 歌学書『』(一名『』)の作者とも伝えられるが、今日では平安時代後期の偽書()と見られている。また、『無名抄』によれば、宇治市のの奥に喜撰の住みかの跡があり、歌人必見であるという。今もという小さな洞窟が山腹に残る。 現在に伝わる詠歌は以下の二首のみ。 * (小倉百人一首 8番) わが庵は都の辰巳しかぞすむ世を宇治山と人はいふなり(古今和歌集983。また百人一首) * 木の間より見ゆるは谷の蛍かもいさりに海人の海へ行くかも(玉葉和歌集400。また孫姫式) (ja)
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