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  • 伊東 祐松(いとう すけます、生年不詳 - 天正6年(1578年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊東氏の家臣。相模守。帰雲斎。伊東祐梁(伊東尹祐の弟)の子。伊東祐梁(相模守)の父。天文2年(1533年)、8代当主伊東祐充の死後に叔父の伊東祐武が反乱を起こしたときは、従兄弟の伊東祐清(伊東義祐)擁立派として働いた(武州の乱)。9代当主伊東祐吉の死後に義祐が家督を継ぐと、その側近となった。家中では義祐と同等の権勢を振るい、余剰米の横領などで数多くの家臣から恨みを買った。元亀3年(1572年)、木崎原の戦いで伊東氏が大敗したときは、孫の祐信が戦死、同年には飫肥城において伊東祐兵の後見役となっていた子の祐梁も死去した。天正3年(1575年)、島津氏に圧迫された肝付兼亮の提案によって、伊東氏は肝付氏と空砲を使った偽装の戦闘を行ったが、伊東方が約束に反して実弾を用いたので肝付勢は全滅し、両家は義絶に至った。この事件は祐松が肝付領南郷を奪うために仕組んだものであったといわれる。伊東氏の衰退期には、米良矩重や落合兼朝など祐松に対する私怨から島津氏に寝返る者も多く出ている。主家没落時は義祐に従って豊後国に退去。翌天正6年(1578年)に日向国の三城で死去した。
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  • 祐松→帰雲斎
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  • 相模守(受領名)
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  • 祐松→帰雲斎
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  • 天正6年(1578年)
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  • 伊東祐松
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  • 父:伊東祐梁
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  • 不明
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  • 伊東 祐松(いとう すけます、生年不詳 - 天正6年(1578年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊東氏の家臣。相模守。帰雲斎。伊東祐梁(伊東尹祐の弟)の子。伊東祐梁(相模守)の父。天文2年(1533年)、8代当主伊東祐充の死後に叔父の伊東祐武が反乱を起こしたときは、従兄弟の伊東祐清(伊東義祐)擁立派として働いた(武州の乱)。9代当主伊東祐吉の死後に義祐が家督を継ぐと、その側近となった。家中では義祐と同等の権勢を振るい、余剰米の横領などで数多くの家臣から恨みを買った。元亀3年(1572年)、木崎原の戦いで伊東氏が大敗したときは、孫の祐信が戦死、同年には飫肥城において伊東祐兵の後見役となっていた子の祐梁も死去した。天正3年(1575年)、島津氏に圧迫された肝付兼亮の提案によって、伊東氏は肝付氏と空砲を使った偽装の戦闘を行ったが、伊東方が約束に反して実弾を用いたので肝付勢は全滅し、両家は義絶に至った。この事件は祐松が肝付領南郷を奪うために仕組んだものであったといわれる。伊東氏の衰退期には、米良矩重や落合兼朝など祐松に対する私怨から島津氏に寝返る者も多く出ている。主家没落時は義祐に従って豊後国に退去。翌天正6年(1578年)に日向国の三城で死去した。
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  • 伊東祐松
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