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  • 二階堂 貞藤(にかいどう さだふじ、文永4年(1267年) - 建武元年12月28日(1335年1月23日))は、鎌倉時代後期の御家人。二階堂行藤の子。法名は道蘊。出羽守。子に兼藤、知藤、兼義がいる。甲斐国山梨郡牧庄主で、嘉元3年(1305年)には鎌倉から夢窓疎石を招き浄居寺(山梨県山梨市)を再興。正中元年(1324年)、後醍醐天皇の倒幕計画が露見した正中の変において、『太平記』に拠れば鎌倉へ送られた後醍醐天皇誓書の判読を止めたという。元徳元年(1329年)、京都では後醍醐天皇と退位を求める持明院統の間で対立が発生し、双方が鎌倉へ働きかけており、3月には道蘊が使者として上洛。道蘊は持明院統側に有利な独自の調停案を提示しており、北条貞顕は道蘊を批判し、『太平記』では「朝敵の第一」と道蘊評を記している。道蘊の独断に関しては、同年2月には政所執事の二階堂行貞が死去し、後任と目されていた道蘊の上洛中に行貞の子貞衡が補任されたことに対しての不満を示したものであるとする指摘もある(永井晋『金沢貞顕』)。元徳2年(1330年)に引付頭人、甲斐国において再び夢窓を招き庄内に恵林寺(山梨県甲州市)を創建。正慶元年(1332年)には政所執事を務め、北条高時を補佐。元徳3年(1331年)、後醍醐天皇の退位を促す使者として安達高景とともに上洛し、宮方の楠木正成が挙兵した千早城攻めにも参加。鎌倉幕府滅亡後も建武政権に参加し、雑訴決断所所四番衆で北陸道を管轄する。しかし建武元年(1334年)、西園寺公宗による北条氏再興の陰謀に加担したとされ、六条河原において処刑された。
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  • 二階堂貞藤
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