三橋 辰雄(みつはし たつお、1923年 - 2001年12月26日)は革命家・教育家・芸術家。青森県西津軽郡生まれ。盛李春(せいりしゅん)、真木陽(まきよう)、牧洋(まきよう)などの筆名がある。三橋派「緑の党」のイデオローグであり、「神なき宗教家」を自認した。三橋が尊敬する人物はエンゲルス、毛沢東であり、事実毛沢東思想を賛美していたが、毛沢東思想と三橋の思想とは、まったく異なるものである。三橋の曽祖父は宮司であり、三橋はこの曽祖父の娘である祖母を深く敬愛していた。三橋の家庭は複雑なものであったらしい。三橋の世界観は、この祖母によることが大きい。三橋の世界観には、出身地である青森や、竜に関する伝説についての言及がかなり多く見られる。また、「バカ」「ノロマ」などの罵倒語の語源が大和朝廷などに制圧された部族の名前に由来し、これらの部族が三橋自身や「緑の党」の幹部の祖先であると主張したり、進化論を否定し、終末論を主張するなど、独特の世界観・歴史観を記述しているが、自伝のような文体や、語呂合わせのような記述が多数あり、体系化されたものとは言いがたい。また竜は神道で水、豊穣を司る神とされる蛇にも通じるため三橋の思想に近代の社会主義とは全く別系統の極めて日本的な農本主義の影響を見出す意見も多い。数多くの歌を作詞・作曲しており、その多くは荒野座のコンサートなどで歌われている。1944年、応召。1945年、捕虜としてカムチャツカにて抑留される。「緑の党」機関紙『日本新聞』の名称は、シベリア抑留者の中で広く読まれた『日本新聞』に由来している。1950年より、中学教諭をつとめる。各種のコンクールで賞を受けたことを自画自賛していたことから、日本共産党に「コンクール教育」と罵倒された。1979年11月19日、のちの『日本新聞』の前身である『みちのく新聞』発行人となる。日本労働党中央委員を歴任し、1980年の衆議院選では、日本労働党公認を受けた対馬テツ子応援演説を行なった。赤羽牧洋記念クリニック院長、三橋牧は、彼の実子であり、父と同じく「緑の党」イデオローグである。「竜の医学」なるものを主張し、荒野座による健康コンサートを推奨している。
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