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  • レジナルド・ポール(Reginald Pole, 1500年3月 - 1558年11月17日)は、枢機卿ならびにイギリス史上最後のカトリックのカンタベリー大司教である。イングランドにおいてローマ・カトリック教会の教義を護ろうとし、プロテスタント勢力の徹底的な弾圧で知られるメアリー1世の治世に大司教として活躍した。レジナルド・ポールは、リチャード・ポールとソールズベリー伯爵夫人(女伯)マーガレット・ポールの三男としてイングランドのスタフォードシャーに生まれる。父リチャードはヘンリー7世の従兄弟にあたる。母マーガレットはエドワード4世の弟クラレンス公ジョージの娘であり、メアリー1世の幼少の頃の保護者、扶養係をつとめた人物である。生来勉学好きであったレジナルドは神学者を目指し、生涯の多くの時間をそれに費やす。1512年から1519年頃まで、オックスフォード大学マグダラン・カレッジにてトマス・リナカーなどに学ぶ。1515年には15歳にして学士号を取得、また20代前半はイタリアのパドヴァやローマなどで学術的交流を深める。これらの学費は、彼に好感をもっていた又従兄弟のヘンリー8世がまかなった。当初は、親密な関係にあったレジナルドとヘンリー8世だが、1526年に始まる国王の離婚騒動が起きると対立関係に陥ってしまう。そのころ遊学先から帰国したレジナルドは、ヘンリー8世からこの問題に関して支援を求められたが、ローマ教会の教義を信ずる神学者としてレジナルドはそれを拒否せざるを得なかった。そして彼は再びイタリアへ旅立つ。1536年12月にパウルス3世より枢機卿に任ぜられ、1545年のトリエント公会議開会時には3人が任命された議長の一人をつとめ、会議を巧みに取り仕切った。このような活躍により、1549年の教皇パウルス3世没後、次期教皇の有力候補とも目されたが、結局デルモンテ枢機卿(ユリウス3世)に僅差で敗れた。1553年にヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの子メアリー・チューダーがイングランド女王メアリー1世として即位すると、レジナルドは教皇により母国に派遣される。メアリー1世のもとでカトリック復興に精を出し、1556年、ついにレジナルドはカンタベリー大司教に任命される。その後、イタリア南部ナポリでスペインと対立する教皇パウルス4世の下、スペインと同盟関係にあったイングランドも非難され、それに伴いレジナルドも異端者扱いされてしまう。そんな波乱の人生を生き抜いたレジナルドが息を引き取ったのは、メアリー1世の死の直後であった。
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