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  • サンチョ7世(スペイン語:Sancho VII, 1154年 - 1234年4月7日)は、ナバラ王国の国王(在位:1194年 - 1234年)。「剛勇王」(スペイン語:el Fuerte, バスク語:Santxo Azkarra)と呼ばれる。サンチョ6世とその王妃でカスティーリャ王アルフォンソ7世の王女サンチャの息子。ナバラの最初の王家であるヒメノ家男系の最後の王。1191年に妹のベレンガリアはイングランドのリチャード獅子心王と結婚したが、サンチョはそれ以前、リチャードがまだアキテーヌ公でポワティエ伯だった頃から彼と親しかった。リチャードがベレンガリアを見初めたのはナバラで開催された馬上槍試合の折であったが、その試合を主催したのはサンチョだという話がある。1192年、リチャードが第3回十字軍で遠征していた際にフィリップ2世の煽動によりアキテーヌで反乱が起きたが、サンチョはナバラから騎士団を率いて駆けつけ鎮圧している。1194年、父王の死去を受けて王位に即いた。1200年にはアフリカへ遠征を行なったが、その隙をアラゴン王国やカスティーリャ王国に攻め込まれ、カスティーリャ王国にアラバ、ギプスコア、ビスカヤを奪われた。サンチョ7世は1212年、カスティーリャ王アルフォンソ8世(父方でも母方でも従兄弟にあたる)、アラゴン王ペドロ2世(互いに母方の従兄弟にあたる)、ポルトガル王アフォンソ2世とともにナバス・デ・トロサの戦いに参加し、ムワッヒド朝のアミール、ムハンマド・ナースィルが率いるイスラム軍を破るのに貢献した。健康を害していたサンチョ7世は、その後トゥデラの山城で隠棲生活を送った。1234年にサンチョ7世は死去するが嗣子がなく、2人の妹ベレンガリアとブランカも既に死去していた。ブランカが生前に自身の息子のシャンパーニュ伯ティボー4世を後継者として兄サンチョに認めさせていたが、サンチョは後に気が変わり、アラゴン王ハイメ1世(ペドロ2世の息子)を後継指名して死去した。しかし、ナバラの貴族はハイメに権利の放棄を願い出て認めさせ、シャンパーニュ伯をテオバルド1世として王に選んだ。
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  • サンチョ7世(スペイン語:Sancho VII, 1154年 - 1234年4月7日)は、ナバラ王国の国王(在位:1194年 - 1234年)。「剛勇王」(スペイン語:el Fuerte, バスク語:Santxo Azkarra)と呼ばれる。サンチョ6世とその王妃でカスティーリャ王アルフォンソ7世の王女サンチャの息子。ナバラの最初の王家であるヒメノ家男系の最後の王。1191年に妹のベレンガリアはイングランドのリチャード獅子心王と結婚したが、サンチョはそれ以前、リチャードがまだアキテーヌ公でポワティエ伯だった頃から彼と親しかった。リチャードがベレンガリアを見初めたのはナバラで開催された馬上槍試合の折であったが、その試合を主催したのはサンチョだという話がある。1192年、リチャードが第3回十字軍で遠征していた際にフィリップ2世の煽動によりアキテーヌで反乱が起きたが、サンチョはナバラから騎士団を率いて駆けつけ鎮圧している。1194年、父王の死去を受けて王位に即いた。1200年にはアフリカへ遠征を行なったが、その隙をアラゴン王国やカスティーリャ王国に攻め込まれ、カスティーリャ王国にアラバ、ギプスコア、ビスカヤを奪われた。サンチョ7世は1212年、カスティーリャ王アルフォンソ8世(父方でも母方でも従兄弟にあたる)、アラゴン王ペドロ2世(互いに母方の従兄弟にあたる)、ポルトガル王アフォンソ2世とともにナバス・デ・トロサの戦いに参加し、ムワッヒド朝のアミール、ムハンマド・ナースィルが率いるイスラム軍を破るのに貢献した。健康を害していたサンチョ7世は、その後トゥデラの山城で隠棲生活を送った。1234年にサンチョ7世は死去するが嗣子がなく、2人の妹ベレンガリアとブランカも既に死去していた。ブランカが生前に自身の息子のシャンパーニュ伯ティボー4世を後継者として兄サンチョに認めさせていたが、サンチョは後に気が変わり、アラゴン王ハイメ1世(ペドロ2世の息子)を後継指名して死去した。しかし、ナバラの貴族はハイメに権利の放棄を願い出て認めさせ、シャンパーニュ伯をテオバルド1世として王に選んだ。
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  • サンチョ7世 (ナバラ王)
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