カルロ・エマヌエーレ2世・ディ・サヴォイア(Carlo Emanuele II di Savoia, 1634年6月20日 - 1675年6月12日)は、サヴォイア公、サルッツォ侯、ピエモンテ公、アオスタ伯、モーリエンヌ伯、ニース伯、キプロス王、エルサレム王(在位:1638年 - 1675年)。フランス語名シャルル・エマニュエル2世・ド・サヴォワ(Charles Emmanuel II de Savoie)。サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世とマリーア・クリスティーナ(フランス王アンリ4世の娘)の子として、トリノで生まれた。公位を継承していた兄フランチェスコ・ジャチントが6歳で夭逝したため、母が引き続き摂政を務める下、4歳で公位を継承した。カルロ・エマヌエーレは1655年の大虐殺で頂点に達したワルドー派の迫害で悪名が高くなった。これが非常に残忍な虐殺であったので、ジョン・ミルトンにソネット「ピエモンテの虐殺」(On the Late Massacre in Piedmont)を書かせることになった。オリバー・クロムウェルはワルドー派を助けるためにイングランド軍の派遣を提案した。ミルトンから任されたサミュエル・モーランドは後に「ピエモンテ渓谷の福音主義教会の歴史」(The History of the Evangelical Churches of the Valleys of Piemont, 1658年)を書いた。
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