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  • イザベル・ド・ポルテュガル(Isabelle de Portugal, 1397年2月21日 - 1471年12月17日)は、ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)の3度目の妃。ポルトガル語名ではイザベル(Isabel)。ポルトガル王ジョアン1世と王妃フィリパ(ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘)の次女として、エヴォラで生まれた。彼女の姉妹たちは1歳未満で早世したため、実質的な一人娘であった。リスボンの宮廷で、ドゥアルテ1世、エンリケ航海王子、フェルナンド王子ら優秀な兄弟たちとともに育てられた。両親は、彼らが健康であるだけでなく学問ができることを願い、子供たちに外国語、数学、科学を身につけさせた。また、王女であるイザベルにも兄弟たち同様政治を学ばせた。イングランド王女である母の影響から、彼らはイングランドびいきに育った。1415年、イングランドの従兄ヘンリー5世との縁談が持ち込まれた。ポルトガルを味方に引き入れ、フランスに対抗するためである。イザベルは18歳の結婚適齢期だったが、この婚約は成立せず、以後13年間イザベルは縁談を承諾しなかった。1419年、母フィリパが黒死病で急死した。賢女で名高い王妃の死に宮廷は悲しみに暮れた。1428年当時、ブルゴーニュ公フィリップは2度の結婚を経験していた。最初の妻ミシェル・ド・ヴァロワ(シャルル6世とイザボー・ド・バヴィエールの娘)は、遺伝性の精神病を患っていた。2度目の妻ボンヌ・ダルトワはかつて父方の叔父ヌヴェール伯フィリップ2世の妻であった。どちらとも死別し嫡子が得られず、3度目はイングランドから迎えたいとフィリップは考えた(ミシェルとボンヌはフランス王族だったが、3度目の妻を得ることでイングランドとの同盟関係を強固にしたい思惑があった)。フィリップが注目したのは、ポルトガル王女イザベルだった。当時の結婚適齢期を過ぎた31歳ではあったが、非常に知性的でかつ健康で多産系の家柄であることが目を引いたのである。ポルトガルは、イングランドと同盟する以外にもフランドル商人と同盟することになると、この縁談を喜んだ。なお、フィリップの生家であるヴァロワ=ブルゴーニュ家は断絶したカペー家系ブルゴーニュ家の名跡を継いだ家系であるが、ポルトガル王家はカペー家系ブルゴーニュ家の分家であった。1429年に結婚し、イザベルはブルゴーニュへ旅立った。船旅と徒歩の旅をしてディジョンに入ると、夫は彼女を連れて領内のヘント、リール、ブリュッセル、アラス、ペロンヌら諸都市を巡った。道中に妊娠がわかり、宮廷にようやく腰を落ち着けてみると、夫は中世の常のごとく多くの愛妾を抱え、間に生まれた庶子たちを養っているのだった。1430年12月、イザベルはクーデンブールで第1子アントワーヌを出産した。見るからにひ弱な赤ん坊だったアントワーヌは早世した。1431年秋に再度の妊娠がわかった頃、シャルル7世がディジョンを攻撃していたため、フィリップはクーデンブールから離れていた。この時、夫の不在時に代理として守備を固め、王軍の攻撃を乗り切ったとされる。1432年に次男ジョゼフを、1433年11月に三男シャルルを生んだ(シャルルの娘であるマリーの夫・神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世はイザベルの兄・ドゥアルテ1世の孫である)。イザベルは、芸術家と詩人に囲まれた華やかな宮廷の女主人であり、政治面においては夫に最も影響を与えた女性であった。外交面でも手腕を発揮したという。ポルトガルとブルゴーニュの縁組は両国に利益をもたらす結果になった。当時のポルトガルはエンリケ航海王子の許で航海事業が発達していたから、ブルゴーニュは国の主要産業である毛織物の市場が拡大したばかりではなく、国内に東方(オリエント)の産物がもたらされた。逆に、ポルトガルにはフランドルの洗練された文化がもたらされた。
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